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2016年2月

2016年2月20日 (土)

私の記憶7 夏休まで

ある朝、登校するためにいつものようにある農家の庭に集まる。 そこには鶏小屋がある。 木の骨組みは屋根と後面と両側面が板で覆われている。 前面は餌入れ口、おとなの出入りできる板戸、残り は金網でできている。 金網にはイタチおどしのアワビの殻が、虹色に光る裏面を前に向けてぶらさげてある。 小屋には十数羽の鶏がいる。 騒がしくなって一羽が別の一羽の背中に乗る。 私は鶏の喧嘩をやめさせようと戸口をあけて中へはいる。 鶏ど もは大声をあげてギャー、ギャー、コッコと大騒ぎする。  家の中から婆さんが飛び出して来て「タクロー、お前は卵を盗むんか?」と怒鳴る。 私は「鳥の喧嘩を止めに 入っとる」という。 くそババア。 庭では小学生どもが大笑いしていた。

初夏のよい天気が続く。 学校から先生が1、2年生を遠足で海に連れて行く。 昼頃海の近くの丘の上で昼食と なる。  (今から思えば、集合のためにすでに登校で一時間歩いてきており、それから数時間歩いて海岸まで。 その 往復をこなすのだから、その頃のガキ共は健脚だったと驚く。) 子供たちは村ごとに集まってすわり、掛けカバン(リュックは稀)からおのおのの昼飯を出す。 私のは巻きずしと 玉子焼き。 巻きずしののりまきの中心はかんぴょうとしいたけを甘辛く煮たもの。 私はガツガツ食った。 

2年生が「お前、これを食え」と握り飯をひとつ差し出した。 私は掴みそこねた。 握り飯はころころ坂を転がる。 私は追いかける。 彼、「やめい。 これやるから食え」ともうひとつ差し出す。 私はそれを掴んで食う。 中に梅干がはいっていて、ゴマがぱらぱらかかっている。 ああこれはうまい。 

朝鮮から引き揚げてきた子供の昼飯は弁当箱に炊いた麦だけだ。 別の2年生たちが「そんなまずいもの食うな」 とその弁当をひっくりかえす。 そして「これ食え」とそれぞれが彼に握りめしをやる。 ふうむ。

昼飯を済ませて坂を下り松林を抜けて砂浜に出る。 青い空、青い海、松林、白い砂。 (数年あとで学校で習っ た唱歌とそっくりな光景。) 私はこんな光景は絵本の中では知っていたが、本物を見るのは初めてだ。  そのうちに雨の日が多くなる。 

田植えの時期だ。 学校は田植えの手伝いのため数日休日となる。 農家は一家総出で田に出る。 田にはすでに水が張られている。  最初に百姓が苗の束を均等に投げ込む。 家族は田に入る。 投げ込まれてあった苗の束を取り、横方向にお かれた長い棒尺の後ろに家族が横列になって、目盛りにあわせて、1本づつ苗を植える。 一人につき数本づつ 植え終わると家族の横列は一歩下がり、棒尺を自分たちに引き寄せてふたたび苗を植える。 横列の同期作業は縦列の最後まで続けられ、再び最前列の新しい横列からはじまる。 すべての田には苗が縦横に規則正しく並 ぶ。 引揚者には農作業はないが、母はなんやかや農家の雑用の手伝いに忙しい。

再び学校がはじまる。 いつものように団体で登校し、弁当をすませると三々五々下校する。 田んぼには小さな おたまじゃくしが沢山いる。 たにしもまだ小さい。 蝶やとんぼの数がふえる。 

蝶が道端の雑草や潅木の葉にと まっているとき、後ろからそっと近づき閉じた羽をぱっとつまんで蝶を捕まえる。 うまく捕らえるか、それとも逃が してしまうことが多いか。 

田の上をとびまわるとんぼで多いのは麦藁とんぼと塩からとんぼ。 葉っぱや潅木の小枝に羽をやすめる。 とん ぼは羽を広げてとまる。 うしろから右手の人差し指を前に出してゆっくりと丸を描きながら、近づく。 指で円を描 くのはとんぼが目を回して催眠術にかかるのをねらってである。 両はねを少し下げる気配があれば、こちらは動 きを止める。 息をつめてぱっと右手でとんぼを押さえる。 タイミングがよければとんぼは捕まる。 うまいか下 手か。  (捕えた虫はどうするか、私には記憶がない。 虫かごなど持って登校しなかったことは確かである。)

ある日、先生が教壇にひとりづつ呼びつけ通信簿をわたす。 日常のこまごました注意をして、子供たちは解放 だ。 (続く)

2016年2月19日 (金)

私の記憶6 一学期

村には店はなく、たいていの必要品はすべて自作である。
 
母は裁縫やあみものができるので、以前から近所の農家から頼まれたいろいろな仕事を引き受け、農作物をわけてもらう。 村では自作できないよほどのものは一里以上離れた学校の近くの店に買いにゆく。 

さて、私は初等科1年生となった。 安東国民学校は木造の平屋だ。 初等科2年から高等科2年までは各学年とも男女2組づつあるが、初等科1年は人数が足りなかったから男女混合の1組しかない。 学校ではカタカナのよみかた、足算と引き算、オルガンにあわせて歌の歌い方、絵の描き方を習う。  

毎朝村の小学生は男女別に、高等科2年生が引率して田畑の中を登校する。 私たちはズック靴ではなく藁ぞうりで登校する。 藁ぞうりは雨降りの日は履き心地が悪く、くずれる心配もあるから下駄にするか、裸足にするかである。
私は雨の日は最初は下駄にしたが、ためしに裸足にして見たら案外快適だったので下駄はやめた。 下駄は鼻緒が切れた場合、結局母に直してもらうためにぶら下げて帰る。 結局はだしで帰らなければならない。 以後、雨の日は裸足で登校することにした。

低学年の私たちは弁当を食べたら下校することになるが、このときは自由に同じ村の同級生や2,3年生と連れ立って帰る。 学校の前を広い道が通っていてその両側には店や鍛冶屋がある。 
私には鍛冶屋が面白かった。 炉には燃えるコークスの中にうずもれている真っ赤な鉄のかたまりを、火挟みで掴み出し、金とこの上に乗せて大きな金槌でたたく。 真っ赤な鉄のかたまりは金槌で叩くたびに面白いように形が変わる。 ここでは農具だとか馬の蹄鉄を鍛造していて、ときどき馬ひきが馬を連れてくる。  鍛冶屋は馬の足を一本づつ抱えてやっとこで馬蹄から釘を抜き、磨り減った馬蹄を外ずして、少し爪を削ってから、新しい馬蹄をあてて、釘を打ち込む。 4本の足の馬蹄が新しくなって、馬ひきは馬を連れ出す。 見ていて飽きない。

帰り道に曲がる。 両側に田畑の広がるバス道だ。 帰り道に上級生はいろいろ良いことも悪いことも私たちに教える。 砂ほこりをたてながら木炭バスがやってきてバス停でとまる。 木炭バスの後部にはタンクやら何やら部品がいっぱい取り付けてあるので子供にはぶら下がりやすい。
 バスが止まっていてこれから動き出そうとして、車掌が乗り込んで運転手と車掌から後ろが見えなくなるとバスの後部にぶら下がる。 バスは砂埃をたて木炭の煙をはいて走り去る。 私にはこれは怖くて真似することができなかった。 

私たちが歩いて村への曲がりかどに到着したころ、バスのひと停留所分の距離を得した連中はすでに小川に覗き込んだり、なにやらやっている。 小川にはどじょうやフナがいる。 まわりの田んぼには麦が育っている。  
ただ、一人でかえらなければならなくなったときは、帰り道は遠い。 歩いても歩いても帰りつかない。 小便がしたくなったときはどこでもする。 たまにウンチがしたくなることもあるが、ところどころの潅木のしげみや野つぼのへりで用をすまし、紙は持っていないから葉っぱですます。 野つぼで婆さんが後ろのすそをからげて小便しているのを見かけることもある。

5月になると麦はすっかり黄土色になる。 麦の穂の中には黒い穂がまじる。 これは黒穂病にかかったやつだ。 大人たちは普段から子供たちに黒い麦の穂を見つけたらちぎって小川に捨ててしまえといいきかせている。 もちろん学校の帰り道に黒い穂をちぎるが、それは単に大人を喜ばせるだけのためではない。 黒い穂に茎のついたやつは絶好の筆になる。 それで他人の顔をたたくと黒いひ
げが描かれる。 長い帰り道をたたきあいしながら追いつ追われつ。 家に着く頃には顔にはむちゃくちゃな黒い模様がついている。
私たち下級生は遊びつかれて家に帰り着くのはかなり遅くなるが、後から退校した上級生たちはわたしたちを追い抜いて、とっくに学校から村に帰って親の手伝いをやっている。 もうすぐ麦の刈り取りだ。

こちらでも、あちらでも麦畑では麦刈りをやっている。 百姓夫婦や上級生が麦藁帽をかぶって、麦束をつかんで鎌で切って藁でしばって自分の後ろに積んでゆく。 手際がよい。 ときどき額の汗をぬぐう。 昼飯はにぎりめし、玉子焼きにたくわん。 やかんから茶はラッパ飲み。 そして最後に乾燥のため組まれた横棒に集めた麦の束を引っ掛けてゆく。 あたりは麦束の匂いがする。

数日してあちらでも、こちらでも足踏み脱穀機のギーコギーコという音がしている。 百姓が家族総出で脱穀を手伝っている。 束を掴んで脱穀機をこぐと、麦粒が箱のなかに降り、その束が終わると麦わらの束を後ろに放り投げて、次の麦束の脱穀をする。 自分の家族が脱穀するのを横目に見ながら下級生は登校する。

麦わらを適当な長さに切ってそれで水を吸うと水が口にはいってくる。 面白いから、茶碗からでもビンからでも麦わらで水を吸う。 ちなみに水道というものはない。 井戸からじかにつるべでくみ上げるか、気のきいた農家では手押しポンプを使う。 のどがかわいたら手押しポンプを押しながら出てくる水を麦わらで吸う。 タイミングは難しいがこんなことでも面白い。

麦畑は収穫後、田植えまでの少しの時間をそのままにされている。 畑の上を燕が飛ぶようになる。 登校時、男の子は男の高等科2年に引率されるのでその中のひとりの家の庭に集合する。
朝の朝礼は講堂に正座して訓示を受ける。 あるとき私たちの男の子のグループが朝の朝礼に遅れた。 体操の先生が私の村の男の子を皆の前によび出して並べ、高等科2年たちにビンタを食わせた。 大きな音がしたので私はびっくりした。  (続く)

2016年2月15日 (月)

私の記憶5 あとべ村

父は名古屋の新聞社で働くことになったので、毎朝はやく出かけるようになった。
最初、村の子供たちは私のまわりに立って、頭のてっぺんから足の先まで疑わしそうな目つきでじろじろ見た。 私の服は都会風、彼らは田舎風、私の言葉は植民地語(標準語に両親のなまりのまじったもの)、彼らはひどいなまりでしゃべる。 自分たちと違った見慣れない人間、物にたいして極めて排他的である。  幸いなことに、私たちの家主の百姓の末男のおかげで、私は彼らにいじめられることは
なかった。
朝鮮から引き揚げてきた子供たちは村になじむのにだいぶ苦労していたようだ。

村の国民学校の上級生たち(初等科5、6年、高等科1,2年。 私はこの村で中学生は知らない)は通常は大人たちを畑や納屋で手伝っているが、凧を野原で飛ばしたり、川で釣りをしたり、集団でよその村へけんかに出かけたりしていた。  下級生やもっと小さい子供は寺の境内に集まって遊んだ。 女の子たちは縄跳びや石蹴り、男の子たちは鐘つき堂のまわりで鬼ごっこをしたり、境内の木に登ったり、棒でチャンバラをしていた。

市販のおもちゃは殆どなく、ほとんどが手製だった。 竹馬、紙込デッポウ、杉鉄砲(紙のかわりすぎの実を込める)に、水デッポウ、木刀、ゴム銃(パチンコ)、紙飛行機、凧などなど。 上級生はハンマー、斧、鎌、のこぎり、かんな、砥石、グラインダーなどを使いこなすことができた。 大きなヤスリから刃渡り30センチほどの短刀をつくって、よその村のグループを脅かしてやると言っていたこともある。

冬は百姓たちには比較的自由な時間がある。 納屋で農具の手入れをしたり、ワラで縄をなったり、人間や牛用のゾウリを作ったりしている。 私たちは正月を楽しみにして待つ。 引揚者の我が家にも「のしもち」を入れた「もろぶた」が5枚ほど涼しいところにおいてある。 ついに、夜中にふとんの中で寺の鐘を聞き新年を迎える。

正月、松飾り。 雑煮を食べて外に出る。 子供たちは外で遊ぶ。 男の子はこまをまわしたり、竹馬に乗ったり、田んぼで凧をあげたり。 私にも低い竹馬を作ってくれたので、一人前にのれるようなった。 上級生は屋根からでないと乗り移れないような高い竹馬で得意げに歩いているのもいる。
女の子たちは羽子板をついたりしている。 大人たちは綺麗な着物(男は服を着たのもいる)を着て赤い顔をしてよい匂いの息をはいて、挨拶したり。 

私たちには以前の正月のようにキャンデーやチョコレート、クッキーやドーナツなどはないが、そのかわり、焼餅(醤油もち、あんもち、きなこまぶし)や干し柿がある。 正月から数日すると、もちはおかきとなり、あられとなる。 焼き芋、蒸し芋。 サツマイモをそのままスライスして干したものを焼いてくったり、蒸し芋をスライスして干したものを焼いて食ったり。

平日は朝昼晩には麦飯を食べる。 特別な日には銀シャリを食べる。
雪が降ることもあった。 風の強い日もあった。 
風のないおだやかな朝。 畑には霜がおりて土が盛り上がっている。 朝日の中、空気はすがすがしいが非常に冷たい。 
よい天気でたんぼ道で遊ぶのは気持ちがよい。 ところがつぎつぎと麦の畝を踏む百姓がいる。 子供は普段絶対に畑の畝を踏まないようにと言い渡されているのに不思議だ。 その百姓は、麦は小さいうちに踏まれて丈夫に育つと教えてくれて、「お前もやって見い」といった。 

(数年後農業とは全然関係のない工業の町尼崎市の小学校の国語の時間に「麦ふむや、みだれし麦の、夕ひかげ」という俳句がでてきたが、この時のことを、情景をはっきり思い出し、句の意味がよくわかった。)

時間は過ぎる。 鋭く冷たかった空気の感触がゆるむ。 日が長くなる。 どこからか花の甘い匂いがただよってくる。 春が近づく。
ついに桜のつぼみが開きはじめる。

この春、私は安東国民学校の初等科に入学した。  学校は家からほとんど田舎道の一里ほどで、登校するのに徒歩で一時間あまりかかる。 入学式には新入生に付き添っていくつかの村から父兄(ほとんど母親か婆さん)が来ている。 講堂の床に新入生のグループが先頭に正座し、その後ろに在校生(初2~高2)、周りに父兄が座る。 

校長先生が訓示をたれ、在校生がピアノに合わせて校歌を歌う。 来賓が挨拶。 私の後ろに座っている退屈したよその村の2年生が私の靴下を引っ張る。 私は後ろを見ないで引っ張りあげる。 別のヤツがまた靴下を引っ張る。 私が引っ張りあげると、また後ろから引っ張って、くすくす笑っている。 おおいに困った。 帰り道で母は、父兄席からそれを見ていたと、その時の様子を笑いながら私に話した。
(続く)

2016年2月14日 (日)

私の記憶4 終戦

下界では恐ろしいことが起こっていたが、山間の村では快 適だった。 色々なセミが合唱していた。「シャン、シャン、 シャン、シャン、---」。 私たちの住む納屋のかたわら のアオギリの木の幹や枝には、茶色のはねや透明のはね のセミが止まっている。 すこし目の前に飛んできて止まっ たやつは、落ち着くと「ジー」と低音からはじめて「ミン、ミ ン、ミン、---」と鳴きだす。  セミのはねはかすかに震えている。 右手でぱっと押さえ ると、大半には逃げられるが捕まるやつもいる。 ひとさし 指と親指で腹と背をつまむと、「ギャー、ギャー、---」と はねをばたつかせてわめく。

小さな流れの上には黒いイトトンボがふわり、ふわりと飛ん でいて、葉にはねをたたんでとまる。 うまくゆくとはねをつ まんで、生け捕りにできる。 前庭には野菜のほかにいろ いろなものが生えている。 百日草はピンクの花弁の中 に、小さな黄色い花が輪状にたくさん生えていて、私には 不思議だった。 

オジギソウは葉にさわると向かい合った 葉は閉じてうなだれる。 しばらくすると頭をあげてまた開 いている。 これも面白い。 ホウセンカは指でつまむと パッと丸まって、小さな種が飛び出す。  みみず、バッタ、カマキリ、テントウムシ、コガネブンブン、 はねをひろげてとまるむぎわらトンボ、しおからトンボ、- --なんでもくる。 納屋のまわりの日陰には、やもり、とか げ、へび、蟻。 以前のようなおもちゃは何もなかったが、私にとってははじ めてのものばかりで、じっと見たり、つかんだり、棒でたた いたり、一日中飽きない。 ギラギラ輝く太陽をまともに受 けるとジリッと暑いが、木陰では快適だ。

ところで、おとなたちは道で、新聞かたてに、「新型爆弾」 が落ちて、大勢が死んだとか、不安そうに話している。 それから幾日かのあと、「戦争は終わった。」「これからどう なるんだろうか」といっていた。 納屋のそばのアオギリにとまってなくセミが小さくなった。  「つくつくぼうし、つくつくぼうし、---」となくようになっ た。  夕方には谷側の木から「かな、かな、かな-ー」とな く声も聞こえる。 前庭のカンナ、ひまわりにまじってコスモ スが咲くようになった。  夜なく虫の声もキリギリスからマ ツムシ、コオロギにかわってくる。 

ある日、突然父がリュックサックとボストンバッグを持って ひょっこり現れた。 父、母、弟と私の家族がいっしょになったので狂喜した。  父が荷物を置き、冷たい水で顔と身体を洗ってふいて一 休みしてから、納屋の床の上にあぐらをかき、弟をひざに のせて、タバコに火をつけてから、どのように私たちを見つ けたかを話し始める。 「津市の中田(母の旧姓)の家のあたりに来たとき、みんな 焼けてしまっていた。 お前たちもみんな死んでしまったと 思った。 何日か付近でぼーツとしていたら、うろついてい る顔見知りの人に偶然出会った。 母子3人は山奥の遠い 親戚へいったらしいと教えてくれたので、ここまでやってき た。」といった。

夕方、夕食も終わり一段落したのち、タバコをふかせなが ら、上海を脱出してどのように逃げてきたかを話し始めた。  「戦争が終わって数日してから、居留民の引き揚げが始 まった。 大勢の日本人が大通りの歩道を港に向かうのを 見下ろしてシナ人たちがビルの上の階の窓から面白半分 にピストルを下に向けて撃っていた。 群集の中で弾にあ たって何人も怪我をしたり死んだりして倒れていった人も いた。 自分と2人の友人は命からがら朝鮮へのがれた。  朝鮮にはすでにソ連軍が入ってきており、自分たちは日 本人の収容所にたどりついた。 収容所では責任者が明 日、南へ下る列車が来て、皆を朝鮮の南に乗せてゆくと いっていた。 自分と2人の友人は何か変だとはなしあっ た。 ソ連の歩哨たちが「明日、列車は北に向かう」といっ ているのを自分はこっそり盗み聞いた(父はロシア語がわ かる)ので友達2人と夜になったら逃げようと決めた。 夜に なり3人はこっそりと収容所を抜け出して漁港のある方へ 逃げ出した。 漁港では漁船が出港しようとしていた。 そ の船長に自分たちの持ち物を渡して南にいってくれと交 渉した。 3日ほどかけて釜山まで乗せくれた。」

私たちは再び家族全員がいっしょになった。 しばらくして 津市に近い平野部の「あとべむら」というところへ引越した。  私たち家族は荷物とともに馬が曳く荷車に乗っていった。   この村では寺と鐘つき堂を中心にして数十の農家があっ た。 各農家とその庭は生垣でかこまれており、庭には菜 園、鶏小屋、牛小屋、納屋などと柿の木、桑の木、すもも の木などがはえていた。 百姓にとって牛は鋤を曳いた り、荷車を引いたりする。 そして村全体が田んぼや畑に かこまれていた。 平野のはるか西方には山脈が見えてい た。 私たちはある百姓家の、今は使われなくなっていた養蚕 小屋に落ち着いた。 持ち主の百姓は村の有力者のひと りで、その家族は養蚕小屋のある敷地内の母屋に住んで いた。 爺さん、婆さん、百姓夫婦、数人のせがれと娘たち の大家族だった。 末のせがれは私よりひとつ年上の一年 生だった。 百姓は末のせがれに私をさして「仲良くしてや れ」といった。 このすこし甘えんぼうのすえっこは私のよ いいたづら友達になった。 冬になった。 満州から引き揚げてきた家族が同じ養蚕小 屋の私たちの隣の部屋に住むこととなった。 この家族は 歯医者と看護婦、二人の十代のせがれの四人。 しばらく して歯治療用の機械が彼らの部屋にもちこまれ、その部 屋を歯科医院とした。 その後、別の農家に朝鮮から家族 が引き揚げてきた。 その家族には私と同じ歳の坊主と2 年生のむすこがいた。 (つづく)

2016年2月13日 (土)

私の記憶3 空襲

母、私、弟はとうとう母の生まれ故郷で祖父と祖母の住む町に来た。 私は初めて祖父と祖母に会った。 これは終戦の数ヶ月前であった。 母は31歳、私はもうすぐ6歳、弟は3歳であった。 祖父母は50歳代で、祖父は市役所に勤めていた。 母には4歳下の弟がいて、よその地区の高射砲隊の兵隊だった。
祖母が言った。 「赤いご飯を炊いて、お前たちの帰還を祝おう」。 私は赤いご飯とはてっきり「チキンライス」だと思った。  チキンライスは私の大好物だ。 待ち遠しい。 
だが、実際に現れたのはご飯に紫色の豆がまじったやつだ。 これにはがっかりした。

祖父はがっちりした体格で、四角い顔をしていた。 祖母は口うるさく、ときどき私たちのいたづらを叱った。 
私はカトリック教会が経営するヤコブ幼稚園へいれられた。 幼稚園は家から遠くなくて、新たにできた友達といっしょに、藤堂高虎公建立の津城の堀端に沿って幼稚園に通った。 堀端にはさくらんぼをつけた桜並木があった。

市は伊勢湾に面していて、中心には大きな川が流れ、海にそそいでいた。 
母は私たちに海には満ち潮と引き潮があり、川の底で遊ぶのは危険だとおしえた。 
また、対岸には大きな赤レンガの建物があり、その中には囚人が住んでいると教えた。 時折、巡査が囚人たちを手錠につないでレンガの門をくぐっていった。 囚人たちは深い編み笠をかぶっていて、顔が見えなかった。

幼稚園では毎日最後に机の前にすわって、牧師がなにやら唱えたのち園児たちは「アーメン」と唱えてから弁当をたべる。 私は日の丸弁当が好きだった。 弁当を終えると、いつも牧師は園児に帰り道について注意する。 「飛行機の音がしたら防空壕に入るんだよ」といって園児を帰らせた。 私たち園児はつれだって、津城の堀端の並木の下を家に帰った。 

(後になって知ったことだが、敵の爆撃機は大陸や島から飛び立ち、空母から発進した戦闘機と合流して都市の爆撃に向かう。 爆撃を終えたのち付き添ってきた戦闘機は爆撃機とわかれて、ばらばらに空母に帰る。 着艦の際に、身軽な方が安全だから途中で銃弾は撃ちつくしておく。  その際かなり低空まで降りてきてゲーム感覚で人や子供を撃つ。 と)

かんかん照りの暑い日、母は私をつれて田舎道を歩いていた。 みわたす限り私達2人しかいなかった。 爆音がして空高くに敵の戦闘機がひとつ小さく見えた。一機飛んでいた。 (味方の飛行機と敵のとは爆音が違う。) 母は日傘をたたみ私を大きな木の下に連れ込み、戦闘機が飛び去るまでまった。  今でさえ私は炎天下の田んぼ道を歩いているとき、このときのことをはっきり思い出すことができる:真っ青な空、高空の戦闘機とその爆音。

ときどき高空では味方と敵の戦闘機が空中戦をやることもあった。 撃たれた飛行機は細長い黒い煙を青空に残しながらゆっくりとカーブを描いて落ちていった。 青空には何本かの黒い細いカーブが残っていた。
あるとき、はるかな高空をB29が黒い線をひきながら飛んでいた。 白いパラシュートがいくつかあらわれ、風に遠くへ流されていった。 防空壕から出たとき祖母は「こちらへ来たら竹やりで突いてやるのに!」と残念がった。

日本の旗色はますます悪くなった。 日本の殆どの都市は爆撃機の空襲にさらされた。 
母と祖父母は話し合い町に住むのは危ない、母と子供たち3人は山中の村の遠い親戚に疎開することになった。 
祖父母は私たちが汽車に乗るのを見送り、そのまま市内に残った。 

山の谷間の斜面にはいくらかの家があり、そこから南東の方角に平野が見え、その先に津市が見えた。 谷の底には清流が流れており、こちらの斜面には道があり、その道に面して前庭のある家があって、家の後ろが斜面の山林となっていた。 道から谷底の川に向かって木が生えていた。

私たちは親戚の納屋に落ち着いた。 そのそばを小川が流れ小さなトンネルを通って谷底の川へと流れ落ちていた。 この小川のきれいな水の中には赤い腹の黒いイモリが沢山住んでいた。 私たちは近所の子供たちと小川に腹ばいになってイモリを捕まえた。 夜には暗闇の小川のほとりで点滅しているのは蛍だと教えてくれた。
ある夜のこと、敵は執拗に津市を空襲した。 通常の爆弾のほかに焼夷弾を降らせた。 私たちは家の前の道から、真っ暗の空のした、はるか向こうの市に赤やオレンジ色の雨が降るのを見ていた。  赤い雨のあと津市の方の半円形の空が赤くなった。 見ていたおとなたちは多くの人が死んだに違いないと話し合っていた。
次の日から母がいなくなった。 かえってきたときにはリヤカーを引っ張っていた。  リヤカーには壷がをふたつ載っていた。 祖父母の骨が入っていた。
(続く)

2016年2月 9日 (火)

私の記憶2 引き揚げ

上海幼稚園は閉鎖された。
太平洋での日本の戦況はますます悪くなった。 電力会社の社員の家族は日本へ引き揚げさせることに決定された。 
引き揚げの準備にかかった。 母と私たち子供は軽便(電車?気動車?)で役所へゆき書類をもらった。 家族で父の叔父さんのアパートへ挨拶に行った。 そこでは女学生の娘さんのところに2名の級友がきていて、3人は旅行の途中の私たちのおやつにと沢山のクッキーを焼いてくれた。

家では。 母には大きなリュックサックと旅行カバン、私にはクッキーを詰め込んだランドセル。 弟には小さなリュックサック。 父は母に名工長船作の古い短刀を手渡した。
 (母が言うには、これはどこかで父が自分の持っていたピストルと交換してきたらしい。)

母、私と弟は他の家族とともに、長距離列車の発車する鉄道の駅にゆくため揚子江にある港から蒸気船に乗り込んだ。 船を下りて、鉄道の駅に着くとホームには女性や子供のための特別の長距離列車が待っていた。 私たちはこれから汽車で大きな中国を北へ満州へ、それから鴨緑江をこえて朝鮮半島の先端の釜山へと数千キロの旅行をすることとなる。

汽車の旅は子供たちにとって嬉しいものである。 客車の中では大勢の母親や子供たちは楽しそうで賑やかだ。 
座席も大きくゆったりしている。 おやつは十分ある。 大きな窓からは移り行く風景が見える:荒地、大きな町、小さな村、草原、河、山。 大きな町ではホテルに泊まり、休憩する。
天津のホテルの夕方。 私は高い階にある部屋の窓から広い道路を走る市内電車を見おろしていて、電車のトロリーが上海のものとはまったく異なっていることに気が付いた。 天津ではトロリーはテニスのラケットの外枠のような形をしているが、上海では釣りざおのようであった。

汽車は朝から夕方まで走る。 小さな駅のプラットホームには守備隊の兵隊が銃剣を持って立っている。  ある駅で機関車に石炭と水を補給するために止まったときには、守備隊の将校が弁当をさしいれてくれた。 たきこみ飯でうまかった。 列車は走行中よく途中で停車して、銃剣をもった兵隊が客車に乗り込んできて乗客を検査した。

そうこうするうちに列車はすでに満州の荒野を走っている。 朝日が大きな岩のごろごろ転がる荒涼たる広大な大地の地平線から昇った。 私は初めてなにもない大きな空間を感じた。
列車は止まり銃剣を持った満州の兵隊が客車に乗り込んできた。 私は母に「シナ人?」と尋ねようとしたとき、母はあわてて私の口を両手で押さえた。 兵隊はそれには気づかず席の間を通り抜けていった。  列車は満州の地を走り、鴨緑江を渡り朝鮮の地へ入った。
それからどれだけ走ったのか、どれだけ乗り換えたのか覚えていない。 ついに朝鮮半島の先端の釜山に付いた。
その夜、私たちは連絡線の大きな客室の床にいた。  これは関釜連絡船だったが何故かこのときは九州の門司に向かっていた。 床には多くの人がすわっており、子供が這い回るにも、大人が横になるにも十分のスペースがあった。 私は面白半分に這い回っていて、同行者の魔法瓶にぶつかった。 魔法瓶は倒れ、内部のガラスが割れた。
 母は私をしかり、その人の魔法瓶と自分のを交換した。

朝。 上海からの引揚者たちは船をおり港から鉄道の門司駅まで歩き、それぞれの県にむかうべくプラットホームの上にいた。 私はホームから汽車のレールを見下ろした。 
私は汽車や、レールや、乗り物に関係するもの一般、を見るのが大好きだったからである。 そして今まで大陸と朝鮮半島で長い間乗ってきた列車の線路の幅と比べて、ここの線路の幅はなんと狭いことかと驚いた。
日本の鉄道は狭軌だったのである。

電気機関車にひかれた私たちの列車がプラットホームに入ってきた。 客車に乗る。 昨日の客車の内部と比べて狭く、殆どの窓には板が打ち付けられていて、薄暗く、おまけに私たちと服装の違う沢山の人が立っている。 私たちははじめ席を見つけられなかったが、今まで座っていた人が席をゆずってくれた。 電気機関車のピーツという鋭い汽笛の音が鳴り、列車は動き出しすぐトンネルに入った。 まったく暗くなった。 数分すると次の駅に着き、電気機関車は蒸気機関車に取り替えられた。 (すでに本州)
 その後列車は浅緑の野、濃い緑の山、トンネル、清流の川、点在する家や村をぬって走る。 私は初めて緑の山を見た。 大陸と半島では山ははげていた。

大陸での汽車の旅行とは違って、本州では列車は山の近くを走るので、車窓の景色は早く変わった。 野原はせまい。 車中で眠ったり目が覚めたり。 時々、駅に止まったときに、母は弟のおむつをホームで洗濯するために下車した。
私はどれだけ駅にとまったのか、どれだけ乗り換えたか覚えていない。 
とうとう昼ごろ、目的地の三重県津市の私鉄の駅の前に立っていた。 津は母の生まれ故郷で、祖父と祖母が住んでいる。 母の背には大きなリュックサックと両手に大きな荷物。 弟の背には小さなリュックサック、私の背にはランドセルと右の人差し指に湿った弟のおむつをからげた紐がくいこんだ。 私は大便がしたくなった。

祖父母の家は駅から遠くなかった。 私たちは急いだ。
はじめて祖父母にあった。 しかし私にとってもっと大事なことがあった。 まず2つのうちの一番目の便所に飛び込み見慣れぬ形の便器に急用をすませた。
(つづく)

2016年2月 7日 (日)

私の記憶1 1939-1945

父は華中水電株式会社の上海火力発電所に勤めていた。 発電所の所長は父の叔父で、早くから夫人と娘とともに三重県から上海に移住して、フランス租界に住んでいた。 当時、上海には国際租界(日本、アメリカ、イギリス、フランス)があり、1937年に国民党軍と日本帝国陸軍との間におこった第2次上海事変ののちに、日本帝国陸軍の管理下におかれた。
1939年に欧州では第2次世界大戦が始まった。  ナチスの迫害を逃れたユダヤ人の欧州からの難民18000人が上海の日本疎開に避難し、のちの1943年にニューヨークへ船で移住することとなる。

以下は母の話である。 1939年7月31日午前6時、日本の艦隊が揚子江に停泊して国民党軍の陣地を砲撃した。 
砲が鳴り響いたときに、私はイギリス人の所有するアパートで生まれた。  家主の年老いたイギリス人は毎朝、庭の椅子に座ってグラスになみなみとついだ紅茶をゆうゆうと飲んでいた。

ところで、多くの人は自分の幼い頃のことはよく覚えていないというが、私はそうは思わない。  いくらかの情景は脳のどこかに残っていて、いつかきっかけがあれば意識に上ってくると考える。  
ここからは私の記憶から浮かび上がったものを書こうと思う。

私が3歳になったとき、父母と私は引っ越した。 水洗便所は和式であった。 私は単純な言葉を覚え情景を思い出すことができるようになった。  これまでの私の意識は真っ暗である。
以下が私の記憶から浮かび上がった出来事である。

まず、私たちの家にはいつも中国人の女中がいた。
両親は私に大きな自動車のおもちゃを買ってくれた。 私はそのおもちゃでの遊びに熱中しすぎて、畳のへやで小便をしてしまった。  それ以来寝小便がぴたっと止まった。

当然のことだが、男の子は飛行機、汽車、自動車、電車、市電、船が好きである。 ある寒い朝、父は広場にゴム動力飛行機を飛ばしに連れていってくれた。 吐く息は白かった。 帰り道、3人の若い中国人の乞食がついて来た。  父は「あっちへ行け」となんべんも言った。  しばらく、なおもついて来たがやがてあきらめてどこかへ行ってしまった。
家には新しい2バンドのラヂオがあり、色々な外国の放送を聞くことができた。 父はおもちゃの飛行機を天井に吊るしながら、「わが国はアメリカと大きな戦争を始めた。 これからは、よくいうことを聞くように。」と言った。

新年。 母の腹はますます大きくなった。 3月に産婆が我が家にきた。 母は布団の上に横たわっている。 私も母のかたわらによこたわった。 産婆は赤子をとりあげた。  
そして、母の腹をなでた。  私は産婆に私の腹もなでてくれと頼んだ。  産婆は笑って私の腹をなでてくれた。
かくて私にも弟ができた。  女中はいつも弟をおぶっていた。  私は近所の子供たちと遊んだ。  近くの公園で鬼ごっこ、すべり台、ぶらんこで。

日曜日には両親はよく私たちを父の叔父のフランス租界のアパートへ連れて行った。  おばさんは色々な菓子を出してもてなしてくれた。  便所は洋式だった。
両親はときおり市の中心へ連れて行ってくれた。 広い道路、大きなビルデイング。 大きなトラス橋(上海ガーデンブリッジ)  多くの中国人が行き来する。 タクシー、市内電車、トロリーバスが行き来する。 市内電車は2両連結、前が緑色で中国人以外の外国人用、後ろの白色の車両は中国人用。

道路は人、人、人。  私たちはレストランへ。 時折、上海神社を訪れる。 そこには花壇と通り道の境界用に砲弾を先端を上に向けて並べてある。

私はよくしゃべるようになった。  活発ないたずら好きな坊主になった。  ときどき引っかき傷や、切り傷ができた。
 ひざや向うずねには、いつも引っかき傷や打ち身の蒼あざがあった。 頭にはたんこぶが。  走った。
あるとき石を投げたら、中国人のクラブの建物の窓ガラスが割れた。  弟をおんぶして子供たちを見ていた女中は家に走って帰り、私の母にいいつけた。  母は私をしかり、クラブへ謝罪に行った。

しばしば青空にはきらきら銀色に光る爆撃機の編隊が飛んでいった。 私たち子供は空を見あげて、誇らしげに手を振った。
私たちの家家の前の道を陸軍の隊列が通過した。  兵隊、トラックや馬。  トラックが中国人の男に衝突し、男は怪我をして、軍医が治療にあたった。 連隊は停止し、兵隊たちは道端で休憩し昼食をとった。  将校たちは我が家にあがって、休憩した。  私や近所の子供らは大いによろこび何頭かの馬のまわりに集まり、馬ににんじんを与えた。 馬は喜んでにんじんをたべ、黄色い馬糞を放出し
た。
5歳になったとき、私は上海幼稚園に入園した。 そこではオルガンに合わせて歌を習ったり、遊戯を習ったりした。 
月曜から土曜まで毎日歩いてかよった。軽便鉄道があり、母と私はそんなに遠くない場所へゆくのにそれを使った。 軽便鉄道で電気を使っていたのかデイーゼルを使っていたのかよく覚えていないが、蒸気機関車ではなかったと思う。

近所の子供たちとよくレンガ造りの高い塀で遊んだ。 私はすでに塀の上を歩くことができたが、あるとき運悪くアゴから下に落ちて沢山血がでた。母は驚いて私を病院へ連れて行った。 医者は傷を縫い絆創膏でガーゼを貼り付けた。

家々の後ろは公共の後ろ庭があり、大人たちは防空壕を作るために大きな穴を掘った。 ある日どしゃぶりの雨が降り、それは深い池となった。 子供たちはその周りで鬼ごっこして興じた。 私はあやまってその池におち、岸の斜面は滑りやすかったので、這い上がることができなかった。 
子供たちはあわてておとなをよびにゆき、数人の母親がかけつけて私を引きずりあげた。私は頭のてっぺんから足のさきまで泥まみれだった。

庭を走り回っているとき落ちていた棒につまづき、右手のひじを脱臼した。 母はあわてて私を中学校の柔道の教師の所へつれていった。 彼は私の右の上腕と手を両手につかんで、えいやっとばかりにはずれていた関節をはめこんだ。 少し痛かったが、関節は元通りになった。

今まで空を飛んでいる飛行機は翼に日の丸をつけたものばかりだったが、ときおり見知らぬマークの飛行機を見かけるようになった。 父は紙に図を書き、母に「翼に日の丸のある飛行機は日本の飛行機で、青い丸の中に白い星のマークのあるものはアメリカの飛行機だ。」と教えた。

時折警戒警報の単調な音色のサイレンが響き渡るようになった。 警戒警報の場合は灯火管制をしかなければならない。 空襲警報の断続的なサイレンが鳴りひびいたときは、防空壕にはいらなければならない。 防空壕の中では近所の人が小さなランプの周りに集まって雑談する。 遠方の爆弾の爆発の音が聞こえ、地面が振動するのを感ずる。 空襲警報解除のサイレンが鳴るまで、防空壕から出ない。

すこしづつ、日々の生活が変化した。 夜の散歩は危険になった。中学生が懐中電灯で散歩していて、誘拐され、遠くの人気のない野原で殺された。

ところで、母はときおり子供たちを電車で市内の店や映画に連れて行った。 私は漫画映画「空の神兵」(落下傘部隊が鬼が島の赤鬼と青鬼を退治する。 鬼はアメリカ兵とイギリス兵)。 (後にソ連の東京駐在武官だった人物が主人公の猿はチェブラーシカに似ているといった。)
またデイズニーの天然色映画「白雪姫」も観た。 日本で住むようになってから聞いたことだが、日本では戦時中米国の映画の上映は禁止されていたとのことだった。

すでに1945年の春。 私はもうすぐ6歳だ。 幼稚園では赤、白、黄色のチューリップがさきほこっていた。 海軍が幼稚園の建物を接収して、予科練の兵舎とすることとなった。 私たち幼稚園児はステージで歌ったり踊ったりして、予科練のお兄さんたちを歓迎した。

両手をあげてチューリップのつぼみをつくり歌って踊った。

「咲いた、咲いた、チューリップの花が。
ならんだ、ならんだ、赤、白、黄色。
どの花見ても、きれいだな。」
両手で枕をつくって、

「赤いべべきたかわいい金魚。
お目目をさませば、ごちそうするぞ。
赤い金魚はあぶくをひとつ。
昼寝うとうと夢からさめた。」

若い予科練のお兄さんたちは園児たちといっしょにブランコや滑り台で遊んでくれた。

(続く)

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