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2016年5月

2016年5月22日 (日)

私の記憶15 ジェーン台風

鶏を飼っているといつも卵が食えるのと、卵を産まなくなった鶏の料理にあずかれるから好都合だ。 父が休みの日などで、家族で鶏料理をしようとなると私たちは嬉しくなって自然とよだれが口の中に湧く。 
父は鶏小屋から目あての鶏を庭へ引っぱり出すと、一瞬のうちに首をひねって頭を包丁でストンと切り落とす。 しばらくして血抜きが終わり、首をにぎって私たち兄弟に「羽をむしってこい。」と差し出す。  私たちは喜んで首をぶら下げて南の沼に駆けつける。 
手当たり次第にむしる。 むしった羽は沼の水にふわふわ浮いて、風に吹かれてただよう。
殆ど丸裸にむしって、意気揚々と帰る。 
父は庭で板の上で包丁で巧みに解体をはじめる。 手羽とモモを切り離す。 胴体に包丁を入れ、内蔵を取り出して私たちに説明する。 
これは餌袋、胃、肺、心臓。  それは腸、肝臓、腎臓、卵巣・・・・。  
内蔵は味付けして炊いたり炒めたり。 胴体は中に詰め物をして蒸し焼きにすることもある。  手羽やももは骨のまま炒められることもあれば、むしってかしわ飯となることもある。 とにかくごちそうだ。
 
さて、2学期がはじまって、1950年9月3日は休みだった。
朝から強い風が吹いている。 家もなにやら揺すられているようだ。 木切れやらトタンやらが吹き飛ばされてゆく。 ラジオはジェーン台風が大阪湾に向かっているといっている。 人々が頭に布団などを載せて逃げてゆく。私と弟は北側の窓から面白がって眺めていた。 隣の人が玄関の戸をたたく。 「高潮が来るぞ!!!学校へ逃げろ!!!」。
犬は鎖を放たれ、父と鳥小屋の鶏は家にのこる。 母と弟と私は毛布を頭にかぶり学校へ走る。
 
私たち親子3人が学校の2階へかけあがったころには、すでに大勢の人たちが避難してきている。 やっと階段をのぼって2階についたとき水が運動場に入ってくるのが見えた。 教室では大人たちは口々に風の恐ろしさや水に追いつかれたことなどをしゃべっている。 
私たち子供は廊下をかけまわり、友達を見つけて3階へ行ったり、まるで遠足の合宿気分である。 
 
やがて夜になる。 水もいつのまにかひいてしまっている。 やがて大人たちは協力して炊き出しを始め、皆ににぎりめしが配られた。 いつもは麦飯をくっているので、炊き出しの銀シャリのにぎりめしはとくにうまい。 
夜にはあちこちロウソクの火がともる。 
人々の話しから我が家は床上浸水一尺。 父も犬も鶏11羽も無事なようだ。 私たち3人は今夜は皆と教室で泊まりだ。 
 
翌日家に戻る。 まずは、鎖から離れていた犬は大喜び。 さっそく残飯を食って、鎖につながれる。 鶏たちも小屋に戻る。  
床上浸水一尺。 畳、ふすま、衣類は汚水を吸っている。 まずは畳は隣近所の男たちが協力して、外へ出して水を繰り返しぶっかける。 押入れの中の下の段の衣料は大半が水を吸っているので水につける。  
家が小さいから私たちには殆ど家具はない。 畳が乾くまでは数日かかる。 暑い時期なので、夜は畳なしで板の上に毛布をひいて横になればよい。 ふすまは濡れた場所に水をかけて乾かしてから無理してもとに戻す。
数日して登校した。 校庭には数家族がテントやら掘っ立て小屋をたてしばらく生活した。 教室ではいろいろな地方からの慰問品が配られた。
 
さて、世の中はめまぐるしい。 お隣の朝鮮半島はいくさのまっただ中。 米軍は今にも追い落とされそうだったが。 9月15日に仁川上陸を強行し、北鮮の首都平壌を陥落させた。 南鮮の先端まで補給線の伸びきっていた北鮮軍は補給路をたたれ劣勢に。 勢いにのった米軍は北鮮軍を追い上げついに鴨緑江に。 いまにも国境線を越えるかと見る間に、中国の百万の人民解放軍がわっと北から押し寄せた。 ソ連の空軍も金日成を応援した。 戦線は北緯38度線まで戻り膠着した。
 
話をもとへもどすと、私たちの市のジェーン台風による被害は甚大だったが、現代に比べて、復興は速かった。 
なぜなら、一般に人々はずっと貧しく、失うものが少なかったと同時に戦災や天災に慣れていてタフだったのだろう。
この後からは食糧事情も暮らし向きも徐々によくなり、以後私はもう長いあいだ引越しすることもなく日々の生活は平穏になった。 思い出すこともずっと減ってしまったので、ここで筆をおくこととする。
(おわり)

2016年5月21日 (土)

私の記憶14 1948年夏から1950年

私たち兄弟が通う市立大庄小学校は村立として建てられた古い学校だ。 たびたび水害に見舞われる村民たちのために避難所の役割をもたせるよう堂々とした3階建ての鉄筋づくりで講堂の天井は高く大きかった。  外見だけでなく、講堂以外も天井も高く古色蒼然として立派であった。 
戦時中空襲を避けるため、灰色のコンクリートに大きな黒色の縞模様がつけてある。 校舎のすぐ南には、すでに取り外された二ノ宮金次郎の台座と御神影を入れる倉庫の基礎が残っていた。 それから校庭があり、校庭の南側に大きな丸い盛り土の中央大きな松の
木があって、そのそばに正門が南側に開いている。
学校の西側の南北にはしる大道りを、大庄小学校から南に歩くと、社宅からもそう遠くないところに道に面して朝鮮学校がある。 ときどき赤旗が立っていて大人たちが何やら大きな声で叫んでいた。
 
今、日本は戦勝国連合(主として米軍)の占領下にある。
日本の法律はGHQ主導のもとに、日本政府から発布・実施される。 学校の教科書はGHQに検閲され書きかえられる。 
1948年5月に「夏時間」法が発布され夏には時間が1時間早められることになった。 教室で先生が「明日から、学校が1時間早く始まるから、遅刻しないように。」と注意する。
早行きの授業のときは慣れるまで朝は少々つらいが、放課後遊び時間はたっぷりある。
私はもう薪割りの斧も使えるし、のこぎり、金槌、かんなを使って木工もできる。 
簡単な木製のソリを作って友達と武庫川の堤防に行く。 堤防の斜面には草が生えてい
て、ソリ遊びにもってこいだ。 斜面を登ったり、滑り降りたり、夕暮れ時しんどくなるまで斜面や河川敷で遊んだ。
 
話変わって、中国大陸では蒋介石の国民党軍と毛沢東の八路軍が長い間戦っていた。 とうとう八路軍が勝った。 国民党軍は日本の領土の台湾へ逃げ込んだ。 
中国国民党は日本の戦勝国となっている。 台湾は中国国民党のものとなり、中華民国となった。 八路軍は大陸に中華人民共和国を樹立した。 中国は2つとなり、それぞれの応援団が片方を本当の中国として対立した。
 
1949年11月から教室で先生から、今までの左側通行は「人は右、車は左」になったから従うようにと言われた。
1950年. 私は11歳となり、5年生。 いつ2部授業がなくなったか定かではない。
私たちの家族は鶏のひよこを何羽か買ってきて箱のなかへいれ、夜は電球で暖めたりして育てた。 父は裏庭に鶏小屋を作った。 いつの間にか10羽の雌鳥と一羽の雄鶏となった。 今では毎日卵を食えるようになった。 私と弟ははこべを取ってきたり、貝殻をくだいて、葉っぱと糠を混ぜ合わせた餌を食わせたりして飼育を手伝う。 
犬も飼い出した。 茶色の雑種のオス犬で「チロ」と名づけた。 犬の散歩は子供の仕事である。 犬は東向きの台所の扉の近くの犬小屋につながれている。 犬は私たちの残飯を食う。 洗面器に入れた水を飲む。 あるとき便所の汲み取りにきたおっさんに噛み付いて問題をおこしたこともあった。
 
私たちの生活は安定してきたが、世間はなにやら騒がしい。 GHQの命令で赤狩りがはじまる。 旧社宅に住む私の仲のよい同級生の父さんは共産党員である。 発電所をやめさせられた。 一家は社宅を出て愛媛の松山に引っ越した。  
私たちの社宅の東隣のおじさんも共産党員で、発電所をクビになった。 おじさんは若いおばさんと幼い子供を残して失踪した。 家族はそれからはおじさん抜きで長い間社宅に住んでいた。 
私たちから4軒南の社宅に住む若い夫婦のおじさんも共産党員だったので、発電所をやめさられた。 社宅に住み続けて紙芝居屋になった。 毎日自転車に紙芝居の箱を載せ、あちこちの広っぱで子供たちを集め「黄金バット」だとか「人面相」だとかを上演し、私たち子供を喜ばせた。 おじさんには「タマキチ」という大きな犬が鎖なしで付き添っていた。 この犬は少々恐い。
 
日本の領土だった朝鮮半島は日本の敗戦時にソ連軍に占領された北鮮と米軍に占領された南鮮に分かれており北緯38度でわけられている。 
1950年6月早朝、金日成を首領とする北鮮軍が38度線を突破して南鮮に攻め込んだ。 南鮮軍は弱くあっと言う間に京城が占領された。 かくて朝鮮戦争が始まった。 ラジオと新聞は毎日のように戦況を伝えた。 7月には国連軍(主として米軍)が半島に投入された。 8月中ごろには釜山まで追い詰められた。
朝鮮半島は真っ赤に塗り替えられるのだろうか?
(つづく)









2016年5月19日 (木)

私の記憶13 1948年夏

阪神電車の武庫川駅から、300メートルばかり東から。 
線路の北側に葦の生えた沼がつづく。 沼の一部を埋め 立て、発電所は社員の社宅を建設中である。 いわゆる一 軒2戸長屋の群。 
 
その北端、東から3戸目(2軒目の東半 分)に私たちは入った。 6畳と3畳。台所と玄関、便所、裏庭つき。 隣は全く対称 形。 この一軒2戸長屋がスペースをあけて20軒ほど建て られてゆく。 のちに真ん中の広場には社宅の住人のため の集会所が建てられた。 
 
社宅群全体は木の柵で囲まれ る。 東と南に門がある。 これが新社宅と呼ばれる。
東側の道をはさんですでに20軒ほどの旧社宅があり、こ れも木の柵で囲まれている。 
旧社宅の中心には公衆浴 場がある。 社宅の住民には入浴券がくばられている。
近隣は窃盗事件が多いので社宅の男たちは数班に分け て夜警団をつくる。 懐中電灯をもち、木刀で武装する。  夜は木柵の門は閉じられ、出入しようとする人物は誰何さ れる。
 
新社宅の南側は沼。  沼には葦と蒲(がま)が生える。  その南は阪神電車が走る。 はるか南遠方には発電所の 煙突が立ち並び、数本の黒い煙があがっている。 社宅用の埋立地は発電所の石炭の燃えカスなので、沼の 水には不純物が染み出し、水に映る空の色は虹色であ る。 以前の布施市での狭苦しい風景とはまったく異なる。  
東遠方には平屋の軒並み。 はるか西には武庫川ぞいの 松並木とそのまた向こうは六甲山と甲山。 北側遠方には 低い家並み。 空の空間はずっと大きい。
2学期。 私は大庄小学校3年生に、弟は1年生に編入。  旧社宅の一人は私の同級生だった。 なおも2部授業は 続いている。 
 
午後の授業のときは、11時くらいまでに遊 びは終わらせなければならない。 そんなときには釘さし が最適だ。 数人おのおのが自分の愛用の5寸釘をもっている。 地面 に三角をかく。 順番を決め、釘を投げ下ろして地面に突 き刺す。 三角の頂点から突き刺さった点に線をひく。 投 げた釘が地面に突き刺さされば、そのままその点を結び続 けて蜘蛛が巣をはるように折れ線を描き続ける。 釘が倒 れれば、次の投げ手に代わる。 自分の蜘蛛の巣がすべ て相手の巣を包み込み、三角の内部に突き立てれば勝 ち。 黒っぽい土の色。 釘が小石に当たってちいさな火 花が出て跳ね返されたときの音。 投げるたびに鼻汁が出 そうになるときの感触。
 
この頃ラジオと新聞は「極東軍事裁判」というものを報じて いた。 1945から1949年に大東亜戦争の結果、極東に起 こった出来事を並べてみよう。
 
1945年8月9日  ソ連が日本に参戦し満州に攻め込む。
1945年8月15日 日本がアメリカに降参。
1945年8月17日 インドネシアがオランダから独立。
1945年9月2日  ベトナムががフランスから独立。
1945年9月24日 国際連合が作られ、安全保障常任理事 国に米、英、仏、ソ、中華民国。 (中華民国が戦勝国とは 不思議。)
1946年7月24日 フィリピンがアメリカから独立。
1947年8月15日 インドが英国から独立
1948年1月4日  ビルマが英国から独立。
1949年 中国共産党軍が中華民国を大陸から追 い落とす。
 
今まで私は一箇所に一年前後しか住まず、常に他の場所 へと移動する生活をしてきた。 そのつど環境がまったく変 わったので、住んだ場所と自分の年齢は簡単に関係づけ られ、風景は自分の年齢と結びついて思い出すことがで きた。
今後は長く同じ風景に住んだために、時と自分の 子供時代の年齢の目安には世の中の出来事を基準にせ ざるを得なくなった。  (つづく)

2016年5月 9日 (月)

私の記憶12 1948年夏まで

私たちの第七小学校からあまり遠くないないところに朝鮮人学校がある。 ある日朝鮮人学校の前に、通りに沿って赤旗が立ち並び大人たちが何事か叫んでいる。 
警官隊が対峙してにらみ合っている。 私たちは学校のかえりに遠巻きにして見物した。 私の目の前では期待した何事もおこらなかった。
(1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で在日朝鮮人と日本共産党により朝鮮人学校事件が発生した。  これにより民族教育闘争、大規模テロ、逮捕監禁・騒乱事件で、日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告された。)

さて近鉄布施駅の近くにはヤミ市があり、人であふれていた。 母はその中の朝鮮人の経営する雑貨屋で働いている。 給料日に学校から帰ったらそこへ来いという。
 それで私は放課後ランドセルを家にほりだして駅前に行った。 私がそこへ着いたら、母が売り子をしているテントには色々な客が来てハンカチを買ったり手袋を買ったりしている。 客の中にはカーキ色の制服を着た巡査もいて、靴下を買って行った。 店主は母に給料を渡して、今日は仕事を早くきりあげても良いといった。 

母は私をまず楽器店に連れて行ってハーモニカを買ってくれた。 次に映画館へ行った。 映画館は観客がいっぱいで私たちは立ち見した。 

映画は黒澤明の「酔いどれ天使」。
戦後の貧民街。 崩れかけたビルの前にはおおきな池があり、あらゆるゴミが投げ込まれ、水の表面からはメタンガスがぷくぷくとわきあがっている。 ビルの前にはチンピラが繰り返しギターの練習(「小雨の丘」)をしている。 
これが映画のバックグラウンド音楽になっている。 
前の診療所。 酔いどれの町医者真田(志村喬)は良心的で貧乏人のよい味方でもある。 ヤミ市を取り仕切るヤクザの中堅チンピラの松永(三船敏郎)が手のひらに銃創を受けて医院へ来る。 真田は松永の手を治療していて言う。 「お前は肺病で、このままではすぐ死ぬ。 ここへ入院して療養して行け。」

松永は止める医者をふりきって出てゆく。
ーーーーーーーーーー
繰り返し「小雨の丘」を練習するチンピラの前に男が現れギターを取り上げて見事にカッコイイ曲をひく。  これは長年収監されていた監獄から出所してきたヤクザの以前の幹部岡田である。 松永は以前のように岡田をたてまつる。
松永は喀血を悪化させないよう真田医師にかたく止められて禁酒していた。 岡田は松永にウイスキーを無理強いする。 松永は再びアル中となる。 岡田は冷血で計算高い男だ。 松永が肺病なのを知り疎んずるようになる。
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松永と岡田はビルの廊下と部屋で殺し合いとなる。 両者はペンキと血でどろどろになりながらそうぜつに取っ組み合う。 松永が岡田のナイフを奪ってここぞと言うところで喀血して両手で口を押さえる。 松永はナイフを取り落とす。 岡田はそのナイフをひろい松永に致命傷を与える。 松永は物干し竿に白い布がはためくベランダに這い出して息絶える。
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真田医師はこの世に無情を感じヤミ市の前にたたずむ。
 そこへ、真田が以前から治療を続けていた肺病の女学生が大病院で撮影されたレントゲン写真を見せにきた。
完治している。 ここで真田は明るい未来に一条の光を見、女学生と腕を組んでスキップを踏んでヤミ市の雑踏の中へ。
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この映画でバックグラウンドに流れる「小雨ふる丘」はラジオからしょっちゅう流れていた歌謡曲だ。私には題名は意味不明だったがメロデイはよく覚えていた。 それ以来、この映画の名をきくだけで、このメロデイが耳の中から聞こえる。 また松永と岡田がペイントだらけになりながら、こけつまろびつ格闘するシーンも脳裏に残っている。

さて、父の通勤は布施市から尼崎市の海岸の発電所へと時間がかかったっていたが、幸いなことに発電所は社宅を増築しつつあった。 私が小学校3年の夏に一家は尼崎の社宅へ引っ越した。 このとき母、私、弟はトラックの荷台の貨物の間に作られたスペースに座り、父は運転手の助手席に座って道案内をした。 一行は快適に尼崎市に入って来た。 もうすこしで新宅へ到着するという時、運悪く警官が私たちが荷台に乗っているのを見つけた。 すぐ父とトラックの運転手は警察署へ連込まれ長時間しぼられた。 その間、母、弟、私の3人は派出所の前で太陽がじりじり照りつける炎天下のトラックの荷台の上で待たされ暑い思いをした。 ただ、新宅までのあと数キロの旅程は、私たちがトラックから降ろされた記憶はな
いから、警察が大目に見てくれて、そのまま乗りつけたのだろう。
(つづく)

私の記憶11 1947年 秋冬

2学期が始まる。 学童の服には蚤がいる。 女の子の髪には虱がいる。 
学童たちはいつも身体か頭を掻いている。 学校で私たちは列に並んで消毒を待つ。 保健所の職員が学童の襟もとから噴霧器を突っ込んでDDTの粉で身体の消毒を行い、女の子には頭にもDDTの粉をふりかける。

学童の胃腸には回虫や条虫が住む。 教室では皆に寄生虫除去用のマクニン(海草から作った除虫用のせんじ薬)をアルミ椀から飲ませる。 
(近頃の情報では当時の子供たちには寄生虫はいたが、最近のようにいろいろなアレルギーで苦しむ子供は殆どいなかったとのことである。)
栄養不足と衛生環境の悪さで学童は皮膚病になやまされた。 疥癬に白癬。 栄養不足を補うため教室ではときどき肝油のカプセルが配られた。 まずかったがのみこんだ。

学校の遠足では電車で奈良へ連れて行ってくれた。 
大仏は大きい。 建物も大きく柱の通り穴は簡単にくぐり抜けることができる。 若草山のふもとで弁当を食べた。
 このとき私の弁当は定番のかんぴようとしいたけが芯の海苔巻きと玉子焼きだった。 鹿が寄ってきた。 角がはえているので少し恐かったが、おとなしかったので安心してもたされた餌をやった。

放課後は私たちには遊ぶ時間はたっぷりある。 布施ではラムネと言っていたがビー玉のこと。 地面に釘で三角を描く。 参加者は三角の中にそれぞれのラムネを供出する。 じゃんけんで順番を決める。 自分の順がきたら、手持ちのラムネで狙いを定めて三角に投げこみ中のラムネをたたき出す。 外に出たラムネは自分の分捕り
品となる。 遊びは負けこんで、いやけのさした者から脱落して、飽きるまで続く。

冬。 家族は電車で大阪へ。 大阪では市内電車やトロリーバスが走っている。食堂へ入る。 ライスカレーを注文する。 肉は鯨。 もちろん外食券が必要である。 ああうまい。
その後、本屋に入る。 父は私に「トルストイ童話集」を買ってくれた。 白いしっかりした紙に、各章には丁寧なペン線描画の挿絵がついている。 立派な本だ。

そのときから毎晩父は私に一話づつ声をだして読めといった。 物語りは私にとってズンと重かったので、気が進まなかったが父のゲンコツがこわかったから嫌々音読した。 しかし、今では物語のすじがきだけはよく覚えている。 正しい題名は忘れた。 「火事」(火事場から人を助けるよう訓練された犬が、子供を助け出した後、ふたたび火事場にはいって、大きな人形も助けけ出した話)。 
「猿」(軍艦の甲板で飼われていた猿が若い水兵の帽子を取って高いマストに登ってしまった。 水兵が追いかけて登ったが海に飛びこまなければならなくなった話)。 
「鱶」(若い水兵が艦からはなれて泳いでいるところへ鱶がやってくる。 間一髪で砲手の父が大砲を撃って鱶をやっつけ、息子は助かるが、父は砲を撃った瞬間心労のあまり倒れてしまっている話)、「転轍手」(線路のイヌクギが抜けているのを発見した転轍手が手旗がなかったので、自分の腕をナイフで切って血で白い布をそめて、向かって来る汽車を止める話)。 その他。

年が明けた。 教室内で授業中には先生が黒板に向かっているときに、悪童どもはこっそりけしゴムの投げあいをする。 けっこう面白い。 ただ、ときどき女の子が先生に告げ口するたびに、先生が振り返るので、このときは一時教室内は静まる。

休憩時間は紙鉄砲で撃ち合いをする。 これはごく単純な直径1cm、長さ20cmくらいの竹の筒で、その筒の前後から新聞紙をくちゃくちゃと噛んで粘土状にしたものをこめる。 そして箸のような棒で後ろから紙玉を押し込むと、前の紙玉がポーンと音をたてて飛び出す。 これで机を防御たてとして撃ち合いをする。 熱中した。

いなかでは紙鉄砲遊びはやったが、もっと小型の杉鉄砲遊びというのもやった。 これはずっと小型で、杉の実を玉に使う。 杉のかおりがぷんぷんする。 おかげで、今でも杉の生垣のそばを通るとき、杉のにおいがすると杉鉄砲を思い出す。

学校の階段の手摺りにまたがって滑り降りるのは面白い。 2階へあがって滑り降りる。 また2階へあがる。 わいわいやっているうちに同じ組の女の子が手摺りに手をそえてあがってきた。 滑りおりる私のしりがぶつかって彼女の人差し指の骨がおれた。 骨折は医務室ですぐ処置されたが、放課後、先生に連れられて町のはずれの養豚場の彼女の家まで謝りにいった。 
(つづく)

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