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2017年3月

2017年3月24日 (金)

宇治分校(5)

宇治分校(5)

 

ところで、学校から東の方に電車の「黄檗駅」があり、線路からさらに東には黄檗宗大本山の「万福寺」がある。 黄檗宗は禅宗のうちでもやや臨済宗に近い。 黄檗宗は唐の僧・黄檗希運(860)の名に由来する。 「万福寺」は清から日本に招聘された僧1654年によって建立された。

 

12月に端艇部の新人は先輩の指導のもと「万福寺」に20日間ほど合宿することになっている。 

5時に起き、トレーニングをし、僧の指導で座禅、読経して7時頃に朝飯を食べ、その後登校する。 放課後にまたトレーニングがあり、7時に晩飯を食べ、9時から30分くらい年長の修行僧の監督のもと座禅して、その後就寝する。

 

座禅の時は住職が上座につき、修行僧たちと私たち学生は互いに3メートルほど隔てて、2列に面座して結跏趺坐する。 最初、結跏趺坐は足がすぐ痛くなり難儀したが、徐々に慣れていった。

監督の修行僧は言う。

背筋を伸ばし、肩の力を抜こう。

ゆっくりと息をはき、ゆっくりと息を吸おう。

自分の吸い込む息とはく息に集中しよう。

雑念が吐く息とともにゆったり宇宙に流れ出てゆき、

宇宙の気が、ゆっくり自分の腹に吸い込まれてゆくのを感じよう。

 

息を吐く・・・息を吸う・・・息を吐く・・・息を吸う・・・

くさぐさの雑念はゆっくり流れ出てゆく。  同時に身体の感覚が研ぎ澄まされてくる。

鼻の頭がかゆい。  背中もかゆい。 昼間教室のドアで思いっきり打った左のひじが痛い。

雑念がきえると、こんどは足が強烈に痛み出し、座禅の姿勢をくずさねばならなくなった。

 

瞑想?のあとには「摩訶般若波羅蜜多心経」を合唱する。

「・・・舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是・・・」

私は、「色不異空」「空不異色」に驚いた。 ものの本によると「実在は無に異ならない」「無は実在にことならない」ということらしい。 私にとっては初めての考え方だ。 

最初はゲーテの「ファウスト」の主人公が語る言葉「人生は空中に浮遊する水滴に太陽の光があたって生ずる虹のようなものだ。」を思い出した。  「なるほど人生は幻影にすぎない。」 しかし、これもまだよくわからない。 

 

後に物理学の授業で、相対性理論によると、エネルギーと質量が等価であること知った。  これは実験で確認されたことで、質量は消失すると大きなエネルギーとなり、このことがヒロシマの原爆につながった。  飛散したエネルギーはエネルギーの塵となって宇宙のどこかに浮遊して、あるとき、別のエネルギーの塵とともに冷やされて再び質量に転換するということであった。  

物理学ではエネルギーは質量と等価である。  エネルギーが死んだ状態、すなわち、質量を有する状態は「存在」を意味する。  エネルギーが生きている状態は質量を有しない状態である、すなわち「非存在」を意味する。  私は結論した「存在は否存在に転換できる。  非存在は存在に転換できる。」  今は、えらい物理学者が言っていることだから、とにかく「色不異空、空不異色」は「e=mc^2」のことだな。

 

ところで、食事の準備と後始末は当番がおこなう。  自分が当番のときは、座禅には参加しなくてよい。  当番以外の学生達が座禅で結跏趺坐しているとき、当番は井戸から冷たい水を汲み上げ、食器を洗わなければならない。  座禅で座るのは地獄である。  しかし冷水で食器を洗うのも地獄である。

 

無事「万福寺合宿」も終わり、下宿から学校へ通う。 隣部屋の友人が明治時代に早稲田大学が出版した「通俗三国志」を貸してくれた。  私は三国志が大好きである。 中学時代に吉川英治の「三国志」を何回か読んだ。 ただ高校時代には図書室で羅漢中の「三国演義」を読んでからは、吉川英次の「三国志」になんとなく違和感を感じていた。 私は6歳のとき上海から引き揚げてきた。 あのときの列車の車窓から見た大地の印象となんとなく違う。 国民性の違いからか和製三国志は情緒に過ぎる。 あのカラリとした残酷さとドライさとに満ちた漢字ばかり多い(もっともフリガナ付き)「三国演義」を読みたいものだと思っていたばかりだったので、再びフリガナ付き漢字ばかりの「通俗三国志」が読めるのは嬉しかった。

 

「通俗三国志」は上下二巻からなり、「天地ヲ祭リテ桃園ニ義ヲ結ブ」に始まり、「孔明秋風五丈原」を経て「王シュンノ計(ハカリゴト)石頭城ヲ取ル」に終わる。 

 

冬期休暇中、私たちは瀬田川のボート部の基地で強化合宿した。  1月学校が始まると開放されて2月の期末試験に備えるため下宿に戻った。    

平常あまり学習しなかったので、にわかじたての試験勉強はしんどかった。 おまけに風邪をひいたりして散々であった。 なんとかやりくりして3月に一年目の後期を終了した。  宇治分校とおさらばするときとなった。

 

これからは2年目の授業を吉田分校で受けるために、宇治の下宿を引き払い瀬田川の教養部合宿所へ引越した。  

 

宇治分校(4)

宇治分校(4)

 

8月の始めに合宿所から開放され、8月の終わりまで郷里で過ごした。 毎朝涼しいうちに、犬を連れて武庫川河川敷へ散歩に出る。 昼は高校時代の友達などと集まって話しをしたりする以外に、なにせ暑いので、家でごろごろする以外に何もできない。 父の本棚にあったショーロホフの「静かなドン」の翻訳本を引っ張りだして、興味にまかせて読み始めた。 小説は長かった。 

 

・・・ドン川の両岸には草原広がり、麦畑とコサックの部落がある。 コサックの若者グリゴーリイと隣のステパン家の若嫁アクシーニャとはふざけあう間柄だったが、だんだんお互いが好きになってゆく。 グリゴーリイの親父パンテレイは、こりゃいかん、問題が起こる前にとコサックの娘ナターリヤと結婚させる。 ところが第1次大戦が始まりコサックの男たちは戦地に招集される。 

もちろんステパンも。 ・・・やがてグリゴーリイもドイツとオーストリーの戦にかり出される。 ・・・ ここまではどこの国でもよくありそうな話だ。  

 

ところが、本当の悲劇はこれから始まる。  革命それに続く内戦!!! 

国どうしの戦いは利害にもとづく。 原因も簡単、収束も単純。 ところが今度はイデオロギーの戦いだ。 赤いか白いか。 ドン川流域のコサックの村にも村人を赤く染めようとコミッサールが入りこんでくる。 同じ村の村人は赤と白に分かれて殺しあうことになる。 殺しあう理由はほんのばかばかしい理由だ:赤につくか白につくか。

グリゴーリイは周囲の状況に流され、あるときは赤軍、あるときは白軍として戦う。 彼は片方が相手方を殺すのに、どれほどの正しい理由があるのか、100%信じているわけではない。 しかし殺さなければ、殺される。 生き延びるために殺すのだ。

ついに彼は敗残兵となる。 赤軍の連中が探す。 彼はアクシーニャと逃げる。 アクシーニャは撃たれ馬から落ちる。 

彼はすべてを失ったと思った。  失意!!!  しかし、ひとりの息子だけは残っていた。 物語はここで終わる。

 

「静かなドン」を読んで私はイデオロギーのための戦争は最も残酷な戦争だとおもった。 共産主義は宗教の一種にすぎない。 宗教は「光」と「闇」という最も原始的な理由で物事を分ける。 これは人間の未発達の脳ミソで創り出した絵空事だ。 それにもかかわらず人々は宗教が異なるという理由で殺しあう。 領土争いの戦争の方がまだましだ。 こちらは終わるのも簡単だ。  宗教戦争は相手の皆殺しまでつづく。

9月にはすでに宇治の写真館の2階の下宿部屋のもどっている。 ボート部の練習はない。 学生たち10月の中ごろにある中間試験の準備をしなけれればならない。 試験は前期での私たちの学業履修度をはかるものだ。 試験の一週間くらい前まで授業はあるが、午後3時ごろからは自由だ。 試験勉強をしたり読書をしたり。 夕食後数学と物理学の問題に取り組む。 前期ではボートの練習があり、あまり勉強していなかったので頭が痛い。  夜おそく、勉強のあと気分転換に散策に出ると、あちこちの下宿屋の窓には灯がともり、学生たちが勉強や読書に励んでいる影法師が見えた。  涼しい空気の中、ぶらぶら歩くのは気持ちがよい。  月明かりの中に、1000年年前に建立された国宝の平等院が見えた。  

受験準備に追われた1ヶ月が過ぎ、必要な課目の中間試験に合格した。 10月中旬に後期授業が始まった。 

 

我々学生は両親から離れているので、親の目を気にする必要はなく自由に振舞うことができる。 写真館のせがれはよく我々の2階の部屋を訪れ、我々3人はしゃべったり、歌ったり、タバコをすったり、時にはウイスキーを飲んでおおいに楽しんだ。

ある晩、せがれはしこたま酔っ払ったので、我々は彼を肩にかついで階段を下り、彼の寝室の寝床に寝かせて、自分たちの部屋へもどりぐっすり眠ってしまった。  つぎの朝、おばさんは登校しようとする私たちに抗議した。 なんでも、せがれは食ったものをすべて吐き出したあげく、便所で寝ていたのを朝方に見つけたらしい。 我々に2度とこんなことを起こさないようにときつく注意した。  このとき以来私たちはしばらくは謹んで生活した。

 

ボート部の練習は新人の真野への遠漕で始まった。 新人20数名が4人の先輩部員の引率で3艘の木造の艇に分乗し瀬田川を出て琵琶湖の西岸に沿って北へ漕ぎ出す。 1艘につき約10名で6人の漕手とコックスが定位置に、それ以外は甲板で交代要員に分かれる。  

左には秋の比叡山が横たわる。 いつものように頭の上は青い空であってくれれば、ありがたいのだがあいにくの曇り空。 右側にはいつもならきらきら輝く湖面だがあいにくこの日は薄ら寒いさざ波。 はるかに比良山もくすむ。

昼頃左岸に上陸し、ボートを砂浜に引き上げて休憩する。  砂浜の松林で枯れ枝を拾い集め、焚き火をおこして車座になり、昨夜当番がこしらえた「にぎりめし」を食べる。  昼食後は相撲をとったり、バレーボールをついたり、松林を散歩したりする。

ころあいをみはからって、「全員艇へ!」、主将の号令。 艇を砂浜から湖面へ引き摺り下ろしして湖へ漕ぎ出す。 ゆっくりと帰途につき、夕方に疲れきって艇庫に到着した。 これは来年2回生になってからの琵琶湖周航の予行演習だ。

 

真野遠漕の後の毎日の放課後は運動場での陸上強化練習がつづく。 後期の試験までは時間があるので下宿へもどってからは夜には時間がたっぷりある。 私は「大菩薩峠」という長い長い小説を読み始めた。 この小説は明治維新までの様々な人々の人生を描き、ついでに作者中里介山の文明批評まで自由に混ぜ合わせた仏教小説というべきか教養小説というべきか。 

夏休みには「静かなドン」を読み、秋には「大菩薩峠」を読み始めたがいずれの小説でも、時代が大河のように流れ、その中で個々の人間は、うまれては消えてゆく小さな渦のようなものだと感じた。

(ついでだが、漕艇では漕ぎ方がまずいと渦は弱々しく、すぐに消えてなくなるが、しっかり正しく漕ぐと渦はいつまでも艇の後ろに残っている。) 

 

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宇治分校(3)

宇治分校(3)

 

宇治から京都の中心へ出かけるには、電車を中書島で乗り換えて約30分ほどである。 市電で北へ。 丸太町通りには医学部の角から西に向けて沢山の古本屋があり、和漢の古本やら、仏教書やら、洋書の古本を買うことができた。 私はそこでドイツ語の教官から薦められたGoethe"Faust""Leiden des jungen Werthers"を買った。 

 

新学期は大学の色々なクラブ活動の新人獲得の時期でもある。 運動部、文化部、政治クラブがある。 柔道部、剣道部、野球部、庭球部、蹴球部などはすでに高校時代の選手がすでに登録されている。 端艇部、ヨット部、射撃部、山岳部、乗馬部などは多くの新人獲得にやっきになっている。 私は身体が小さく軽かったので、「お前、軽そうやからコックスに向いとるかも知れん。 ボート部へ入らんか」と誘われた。 なんだか面白そうだから入部することにした。 

 

土曜日の放課後に電車の駅に集合する。 私や漕ぎ屋向きの大きな身体の1回生たちは電車の黄檗駅に集まり、3回の乗り換えと3時間の行程で琵琶湖の南端の石山寺という終点駅に着く。 ここは琵琶湖が瀬田川になるネックになっているところで、川には船台と岸には観覧席をかねた大きなコンクリートの艇庫があり、そこに本学用と教養部用の2軒の合宿所がある。

 

土曜日ごとに合宿所に宿泊しバック台による基本練習や固定座席の大きな木造のボートで川に出て漕ぎ方の基本を練習する。 何よりも食事のときにどんぶりで大盛りで麦飯を何杯もお代わりできるのがありがたかった。 普段は学生食堂で飯は一杯しか食えなかったからいつも腹をすかしていたからである。 日曜日の夕食後に下宿にもどって月曜日の登校に備える。 

 

月曜日から金曜日までは授業のあとで部室に集合して、草ぼうぼうの運動場でランニング、柔軟体操、バック台などの基本練習を行う。 すなわち、柔軟体操、駆け足、耐久力・筋力・瞬発力強化のための器具をつかった運動である。

 

各運動部、各文化部、政治部には部室用建屋の中のそれぞれの部屋が割り当てられている。 部室用建屋は池のほとりにあり、池の向こうは自衛隊の敷地である。 政治部には大学自治会の主流の位置を争う左翼に属する2つの派閥があり、別々の部屋を持っている。 彼らはときどき池を隔てて自衛隊の若い隊員たちと怒鳴りあったりしている。 政治部の学生たちは将来社会党か共産党が天下をとって労農革命が起こると信じており、自衛隊は敵だと決め付けている。 学生やインテリという恵まれた立場にいて、貧しい労農出身の自衛隊の若者たちを敵視している。

運動部の私たちは部屋からそれを面白がって見ている。 政治部の連中は私たちのことをノンポリと呼んで軽蔑しているようだ。

5月の連休には学部対抗のボートレースがあり、工学部が優勝した。 ボート部全体でパーテイ。

 

宇治市には「あがた神社」という木花之開耶姫(このはなさくやひめ)という安産の女神を祭る神社がある。 6月のはじめには「あがた祭」という町中の明かりをけしておこなわれる深夜の闇夜の祭というのがある。 おとこ衆が梵天さんのみこしをかついで町中をねり歩いてから「あがた神社」に梵天さんをかつぎこむのだそうだ。 下宿のおばさんは私たち下宿生はその晩だけはどこか別のところで泊まってくれと言った。 私はボート部の新人の何人かと一緒にどこかの家の2階の大きな部屋へ集められ、外へ出るなといわれた。 巻き寿司や色々なおかずと数本の一升瓶が差し入れられ、雨戸を閉じてあかりを外に絶対もらさないようにということだった。 もちろん布団も充分ある。 たしかトランプを眠くなるまでやってから横になったと記憶する。 

 

宇治は茶の産地である。 近辺の山の多くの傾斜地は茶畑になっている。 下宿の写真館のある表道りには多くの茶の販売店があり、新茶の良い香りがただよっている。 近辺には多くの下宿屋があり、色々な地方から来た新入生がいる。 1950年代はまだ各地の方言はきつかった。 食堂ではたいがい同郷の学生たちが固まって食事する。 九州や中部日本より向こうから来た学生たちが早口の場合、何を話しているかはよく分からない。

この時期からボート部新人の本格的な練習がはじまった。 月曜から金曜日までは放課後の陸上練習。 雑草のはえた運動場で準備体操、柔軟体操、ランニング、腕立て伏せ、懸垂、足の屈伸、ロープの引っ張り合いによる背筋強化、バック台。 土曜日午後から日曜日の夕食後までは瀬田川でスライデイングシートのエイトとフォアで漕艇練習と艇庫内で滑車による錘による筋肉強化。

 

7月には瀬田川で学生ボート部や企業のボート部のレースがある。 私たちの新人エイトクルーは1000m競艇で同志社の新人クルーに大差で勝った。

7月末になると東大との教養部クルー(2回生)により3200mの対抗戦が行われ、勝ったが、私たちは新人戦で負けた。 やがて夏期休暇がはじまり、われわれは漕艇部の合宿所に寝泊りして、トレーニングを行ったり、クルーをいくつか作って競漕に参加したりした。 

 

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宇治分校(2)

宇治分校(2)

 

もう一方の英語の教科書 (An American Tragedy, Theodore Dreiser) の文章は少々難解である。 この英語の先生はよほど共産主義がお好きらしい。 彼は資本家がいかに労働者階級を搾取するかについてくどくど説き、私たち若者は怠惰な眠りから目覚めなければならないと説く。 ついでに、Bonnie and Clydeも読んだらよいとすすめる。 クラスには北野高校からきた幾人かがグループをつくっていて「ああ、また同じことをいいだした。 もうええかげんにして欲しいわ。」とまわりに聞こえよがしにささやく。 私は食堂で昼飯は何を食おうかとぼんやり考えている。 食堂は雑草のはえた運動場の端っこにある。 

 

 

 

ところで授業の「An American Tragedy」にもどろう。

 

ニューヨーク州の小さな町。 クライドは貧しく、学歴もなく、自分の人生に不満をもつ青年だ。 彼の両親は救世軍と賛美歌、即ち、宗教に凝っていて、実世間のことなどにはまったく無関心。 自分たちの息子も宗教活動にはいってくれるのが唯一の望みである。 彼は両親の生活と自分への期待が嫌で、低賃金の職をてんてんと渡り歩く。 クライドはシカゴに行きホテルのボーイの職につく。 そこで成功してはぶりのよい叔父サミュエルに出会う。 叔父はニューヨーク州のある町の服飾工場のオーナーで、クライドに自分の工場で働くよう薦める。 クライドはシャツの襟を作る工場に勤めはじめる。

 

 

 

クライドは自分が監督する班の女工ロバータとデートするようになる。 彼女はクライドを自分の女友達や両親に紹介する。 ところがしばらくして、クライドにはハイソサエテイの人々と付き合うチャンスがおとづれる。 彼は別の工場主の娘サンドラに惚れる。

 

いまやロバータは妊娠している。 ロバータはクライドに結婚してねと執拗に迫る。 うっとうしい。 クライドはロバータをボートに乗ろうと湖に誘う。 まわりに人はいない。 ボートが転覆する。 ロバータは泳げない。 おぼれる。・・・・

 

警察による検証・・・弁護側と検察側の法廷闘争・・・クライドは電気椅子へ。

 

 

 

食堂で昼食。 私たちは外食券と35円から60円くらいの昼食を食う。 ここでは飯以外にちょっとした学用品や日用品も売っている。 13:00 から16:00まではかびや油や薬品のにおいのまじりあった、薄暗くひんやりした部屋で物理学実験だ。 監督者のもとで機器が渡され物質や装置の特性の測定をやらされる。 力、たわみ、振動数、音波、光、電磁気などなど。 学生は数グループにわけられ協力して実験、測定を行いあとでレポートを提出する。

 

 

 

下宿へ30分ほどの帰り道。 たんぼや林をぬけてほこりっぽいかえり道にはほぼ平行に電車の線路もはしっている。 宇治川を渡ってメインストリート(もちろん無舗装)の両側には学生用の食堂、牛乳屋、風呂屋、映画館、学生に下宿部屋を貸す民家とわが下宿先の写真館などが立ち並ぶ。 つきあたりが「あがた神社」。 薄暗くなってきた。 学生食堂で外食券と40円で夕食。 晩には風呂屋へ。

 

自宅から通学する学生以外は京都市内で月10003000円、学校近辺の農家で月500700円くらい、そして宇治市内は古い民家の多くは月8001500円くらいで下宿する。 食事は外食券が使える学生食堂で食う。

 

宇治から京都三条への電車の路線の途中に中書島という駅がありこの地区には公認の遊郭があった。 客に病気をうつさないように、ここの遊女は定期的に検診を受ける。 しかしこの年に売春禁止法が実施され、遊郭の家屋は学生の下宿屋に転業した。 大学生協は学生に月6001000円くらいの下宿を斡旋し、遊郭の転業の後押しをした。 あるとき私は友達の部屋を見せてもらった。 ステンドグラスの窓があり、インテリアもなんとなくなまめかしいムードをかもし出しておりこりゃたまらんと心の中で思った。

 

 

 

ところで「代数学と幾何学」(矢野健太郎)の110分。 線形代数は工学部の学生にも経済学部の学生にとっても、コンピュータが充分発達した現在でこそ極めて便利な道具だが、当時の私には抽象的で理解しにくいものだった。

 

別の数学の110分は「微分積分学」(矢野健太郎)。 矢野健太郎の2冊の教科書は誤字だらけで好きにはなれなかった。 これ以外に数学演習110分があり、研究所の若い助手が私たちを指導した。

 

数学は私たちにとっては単なる道具にすぎない。 数学を本業とする学者は素人を気軽に取り組ませるのは数学者の権威にかかわるとばかりに、ε-δ論法などとまわりくどい話で連続の説明をしたり、必要以上に厳密な上にも厳密な論法で、私たちを早く飽きさせて脱落させようとしているように見えた。

 

後に就職して、私には現実の技術問題を解くため、色々な数学の手法と原理を新たに学ぶ必要があったが1958年に出会ったような無益な項目に出会ったことはなかった。 

 

 

 

次に工学部の学生にとって必須なのは英語とドイツ語。 重要な技術論文や技術雑誌などは英語のほかにドイツ語で書かれている。 ドイツ語の授業は文法(110分)、講読(110分)、会話(110分)。

 

文法は英語よりも面倒だが、単語のつづりと発音は殆どが極めて規則的で、英語のようにつづりをおぼえる必要は全くない。 まあ、論理学をやっていると思えばよい。 私はドイツ人はよほど理屈っぽいのだなと思った。 ひとつの文章を理解するのに長くて辞書を引くのは面倒だが、訳は数学を解くように論理的にやればよいので、逆に不規則だらけで、いろいろな語源からなる単語の数が多い英語よりもやさしい。

 

ドイツ語の講読の授業は比較的簡単な物語からはいったが、辞書さえあれば簡単だった。 

 

水曜日の15:00 から16:50まではドイツ語会話だ。 背の高いはげ頭のドイツ人の教官がまず簡単な文章を大きな声ではっきりと発音し、私たちはその後唱和する。 授業は楽しかった。

 

 

 

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宇治分校 (1)

宇治分校(1)

 

1958年4月から最初の2年間は教養部で一般教育を受けた。 教養部は一年目は宇治分校、2年目は吉田分校(旧制第三高等学校を更新)にわかれていた。 宇治分校は京都市の南にある宇治市郊外にあった。 終戦まで帝国陸軍の火薬貯蔵庫だった広大な敷地は、終戦後に自衛隊駐屯部隊と大学の敷地となった。 大学の敷地は農学部木材研究所と教養部宇治分校とにわけて使われた。  宇治分校は校庭にモルタル2階建ての教室兼管理棟と敷地内に散在する講義室、実験室からなる。 多くの火薬庫時代の頑丈なコンクリートの建物は、それぞれが土手と樹木で囲まれており、爆発事故が発生しても、別の建屋に2次爆発が起こらないようにされていた。 このような建物などが学校の講義室、実験室としても使用されていた。  したがって、通常、授業と授業の間の休憩時間に林の中を長い距離、建屋から建屋に歩かなければならなかった。

 

宇治分校の敷地は外から見ると沢山の高い木がありジャングルのようであった。

門から木造2階建ての本館までの林の中の小径には色々な鳥や蛙や蛇がいた。 あるときは親亀、子亀、孫亀、ひ孫亀が4段に積み重なって日向ぼっこをしていたり、私たちの前を鴨が数羽の子鴨を引率して横断していった。

約千名の新入生は、まだ学科別ではなく、大まかに学部別に50名づつに分けられた。  私はT8組に組み入れられた。  T8組には高校時代の同級生が数人いた。

 

一年目の前期授業が始まる前に、お袋と私は、西宮にある先輩の家を訪れ先輩の母上に御願いして先輩の居た下宿を紹介してもらった。 私はメインストリートの写真館の2階に下宿することとなった。 隣室には徳島からきた私と同じT8組の学生が入居した。  写真館の家族は3名:おやじさん、おばさん、せがれ。  せがれは近隣の工業学校の生徒で3年生、したがって私より一歳若い。 徳島の学生と写真屋のせがれと私の3人はすぐ友達になった。 おばさんはときどき私たちの補導者になった。

 

学校まで徒歩で30分かかった。 私と新しい友人とはよく一緒に登校した。 登校する前にメインストリートにある学生食堂で、外食券と25円で朝飯を食った。

T8組はいろいろな県の出身者の50名で構成されている。 高校時代には教師は生徒にたいして監督者のように振舞っていたが、分校では教官は学生を成人の後輩として扱ってくれた点が大きな違いだった。

前期授業がはじまった。 授業の時間割は次のとおりである。

 

(1) 8:10-10:00 (2) 10:10-12:00 (3) 13:00-14:50 (4) 15:00-16:50

月曜日 (1) 化学 (2) 物理学 (3) 保健 (4) 体育実技

火曜日 (1) 英語 (2) 社会学 (3) 経済学

水曜日 (1) 代数と幾何 (2) 図学 (3) 独語 (4) 独語会話

木曜日 (1) 微分積分 (2) 数学演習 (3) 独語 (4) 政治学

金曜日 (1) 西洋史 (2) 英語 (3) (4) 実験(前物理、後化学)

土曜日 (1) 論理学 (2) 地理学

 

通常の授業以外に、昼食後の休憩時間に、運動場で生物の教官が200頁くらいの「三高歌集」によって歌唱指導をした。 旧制三高には「琵琶湖周航の歌」、「逍遥の歌」、「雪山賛歌」、「ジンジロゲ踊の歌」、「賄征伐の歌」、数多くの寮歌、運動部歌などがあり、その正調を歌い継いでおこうという趣旨だ。 私は喜んで参加して芝生に座って皆に唱和した。

自然科学系の学課は高校の時よりなんとなく難しい。 数学、物理学、化学、英語とドイツ語は必須科目で、授業をさぼることができない。 社会・人文科学系の学課は選択科目で、私たちにはかなり点数があまかったから、私たちは聞き流すだけでよい。 ドイツ語はまったく初めてだが、私にとって新鮮で面白かった。

 

110分の英語が週に2回あり、ひとつは The Old Man and The Sea, Ernest Hemingway、もうひとつはT. Dreiserの「An American Tragedy」の講読だった。 まず学生に数節づつ翻訳させ、教官があとから物語のその箇所の背景やら、正しい訳しかたを説明するという具合だ。 予習は大変で、辞書をひいて単語を教科書に小さな字で書き込む。

 

「老人と海」は次のような物語だ。 年取った漁師は海へ漁に出るが84日間獲物がない。 最初は少年が彼の助手として帆かけボートに乗り込んでいた。 しかし少年の親父があんな収獲のない老人のボートに乗るのはやめてしまえ、とせがれをおろさせる。 85日目に老人はひとりでボートで沖へ出る。 ついに釣り鉤に5.5mの大きなカジキが食いつく。 鋭い長い角をもつカジキと老人との間に数日にわたり死闘が繰り広げられる。 とうとう老人は最後に素手でカジキを打ち負かす。 しかし、ボートはカジキにひっぱられて相当沖の方にきていた。 カジキの傷から出た血におびき寄せられた鮫が集まりカジキに食いつく。 老人と鮫たちとの戦いが始まる。 しかし勝負にならない。 やっと港にたどり着いたときにはボートにくくりつけていたカジキは骨と角だけになっていた。 疲れ果てた老人は自分の小屋のベッドで眠る。 前に助手だった少年がそばで見守る。 老人は若い頃アフリカで見たライオンを夢に見ている。

 

英文そのものは各文章が短く、具体的で簡潔だ。 海洋用語、漁船用語、漁用語に慣れれば、自分が、小船の上で潮風に吹かれ、太陽に焼かれ、波にゆられ、潮風をかいでいるような心持にさせてくれる。 温暖な海の話なので気分がよい。 (今の自分の住むアパートのすぐ近くには小さな漁師町があり、小船で糸釣りの雰囲気が想像できるこの物語は今でもなつかしい。)

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