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2017年12月

2017年12月11日 (月)

Sunrise Sunset

 

Sunrise Sunset 

 

という歌がはやったことがあった。 これはミュージカル「Fiddler on the roof」(屋根上のバイオリン弾き)の主題歌である。

 

このミュージカルは19世紀末ウクライナのアナテフカという村で平和に暮らしていたユダヤ人一家が、ポグロム(ユダヤ人集団迫害)をのがれてアメリカへ移民する物語である。

 

さて、1939年からナチス・ドイツがポーランド侵攻を開始。 ナチスはポグロムを開始。 リトアニアへ逃げて日本領事館で杉原領事から日本の通過ビザを得たユダヤ人たちが、その後どうなったのか。

 

イスラエルの出版社から2004年に発行された

 

The Fugu Plan,

(The Untold Story of the Japanese and the Jews During World War 2),

Marvin Tokeyer and Mary Swartz

 

の中から避難民の中の数人の(架空の)人物たちを抜き出してその足跡を追って見よう。

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1939913日。

リトアニアのカウナス領事館(杉原領事)はユダヤ人難民の群れに囲まれる。 

 

(ナチスを信用していない日本はカウナスに領事館をおいて、ナチスの動向を探らせている。)

 

ヨーロッパ中にユダヤ迫害の嵐が吹き荒れるこの時代に、彼らに残された生き残る道は、蘭領キュラソーという得たいの知れないカリブ海の島のビザを持って東へのがれるしかない。 それには日本の統治する地域を通過するビザを得なければならない。

 

ワルシャワでアヴラム(41歳)は中学の理科の教師。 妻Ruth。 

突然18歳から50歳までの男子にワルシャワからの退去命令が出る。 男達とその関係者はユダヤ人、非ユダヤ人を問わず東部のソ連占領地域を目指す。 妻Ruthは保守的な両親とともに残ると言い出し、アヴラムはとりあえず東へ。

 

ポーランドのアレクサンドロスという町。 信仰深いゲッツェル・シルキン(38歳)は洋服仕立て屋を営む。 仕事のほかは近所のシナゴーグへ出かける程度。  20歳代の妻チェーヤと6歳の息子ドーヴィド。

 

突然のナチス・ドイツのユダヤ人迫害が始まった。  ユダヤ人たちはさんざんな目にあいながら、リトアニアに越境してカウナスで日本通過のビザを得た。 

 

同じようにモイシェ・カツネルソン(14歳)とその妹ソフィー(10歳)は国境を越える途中で両親と二人の妹とにはぐれたまま、大勢の難民とともに日本へ行くこととなる。

 

ポーランド系ユダヤ難民を乗せた列車はリトアニアの首都ヴィルナをモスクワに向けて出発した。 旅行会社はインツーリスト。 ユダヤ協会から費用は支払われている。 24時間後モスクワに着く。 

 

ホテルに案内される。 ポーランドの小さい町から来た難民達はモスクワの建物の大きさと、交通の多さ、ホテルの便利さに驚く。 インツーリストは食事の準備はしてくれない。 シベリア横断列車は数日おきにしか出ない。  難民達にはロシア語はわからない。

 

チェーヤはドヴィドを連れてこれからの列車の長い旅のための食料を買いにモスクワの街に出る。 ゲッツエルは街へ散歩に出て、トロリーバスのポールのメカニズムに興味を惹かれて見ているうちに、ひとりの男が2名の巡査に地下に連れ込まれるのを目撃する。 

 

ゲッツェルは突然巡査に怒鳴られ、ビルの地下へ連れこまれる。 ロシア語はさっぱりわからない。 ポーランド語のできる刑事も加わった。 「見たことはすべて忘れてしまえ」と。 数人の巡査からさんざん殴られこづきまわされる。 以後、彼は気力を失い腑抜けになってしまう。

 

難民の乗ったシベリヤ鉄道の列車は一路東へ。 列車の中は暖かく、湯はいつでも得ることができて快適だ。 しかしユダヤ難民は、時々乗り込んできた兵士による臨検で、いつなんどき強制労働の僻地へ連行されるかとびくびくしながら旅は続く。 

 

ウラル山脈を越え、シベリアのタイガをつききる。 チェルビヤンスクとオムスクを過ぎる。 クラスノヤルスクでエニセイ川を渡り、イルクーツクでは長く停車。 7日後にバイカル湖の端を迂回。 ビロビジャン・ユダヤ人自治区の小さな停車場に止まる。 

 

地元のユダヤ人らしい百姓がイーデイッシュ語で外から難民にいう。 「客車の中のユダヤ人さんや。 あんたら、どないしたんや? ここは社会主義のソ連や。 生きてソ連から出られへんぞな!」

 

出発して11日後にウラジオストックに着く。 インツーリストの社員がやってきて、港が凍って船は出ない、と。 まずはホテルへ。 次々列車がやってきて、ユダヤ難民を降ろす。 

 

3日待ってやっと、気温が上がり氷が除かれた。 71人の難民は日本の貨物船「はるびん丸」の船倉へ。 こわいソ連よ、さよなら。  2日たって、やがて山の手前に敦賀が見えてくる。 「2月なのに、緑だ!」

 

敦賀の入国管理局では神戸ユダヤ協会のトリガノフと、もう2人のユダヤ人が出迎えた。 「日本へようこそ!」 モイシェは自分と妹ソフィーのビザを途中で紛失するが、敦賀の入国管理官は入国させる。 

 

トリガノフは言う、「皆さんは、これから213発の汽車で神戸に行く。 神戸では清潔なベッドとコーシャフードが待っている。」  難民達はやっと今までの緊張と恐怖の旅行から開放された。

 

難民たちは港からゆっくりと駅に向って歩く。 アヴラムは敦賀の通りを歩きながら観察する。 家は木で作られていて小さい。 下水はコンクリートで固めた溝を流れる。 ほとんどの店は道に面して商品を並べている。 花屋の婆さんが身体を曲げて店の前を短い箒で、掃いていてほこりをたてている。 

 

アヴラムが魚屋の中の小さな子供に微笑みかけると、ちびっこは魚の樽のかげに隠れた。 紙屋、呉服屋、八百屋。

 

食堂には客の食欲を誘うように不思議な料理のサンプルがかざられている。 

 

真っ青な空。 清潔な街。 グループは果物屋の前で立ち止まる。 店頭には赤いリンゴ、赤い柿、難民の見たことのないミカンやバナナ。 トリガノフは皆をせかせる。 「日本の汽車は正確だ。 急いでください。」

 

敦賀駅午後213発の汽車に乗り524に神戸に着く。 

 

当時、神戸には3000人の西洋人のうち、約100人のユダヤ人が住んでいた。 市民は外国人に友好的で、住むにはたいへん快適なところだ。 協会はユダヤ難民のために不動産屋とかけあってハイム(寮)を準備する。

 

アヴラムは丘の公園のベンチに座る。 梅の花はすでに咲いている。 下に見える国民学校の運動場では制服の学童達が軍事教練をうけている。 真っ青な海も見える。 

 

昨夜はワルシャワの最近のニュースを聞いた。 ドイツ人たちは組織的にユダヤ人たちを飢えと寒さに追い込んでいる。 ヨーロッパはもうユダヤ人の帰るところではない。 彼の妻Ruthがすでにヨーロッパを脱出したと知って安心した。 

 

「すみません。 あなたはユダヤ人ですか。」 背広をきた小づくりな日本の男が英語で声をかけた。 ユダヤ人はヨーロッパではこんな質問の後には殴られるか、つばをかけられるかのどちらかだ。 

 

アヴラムはうなづいた。 その日本人はカバンから取りだしたリンゴをくれて、言った。 「がんばってください。」

 

後にユダヤ協会でこの件を話すと、「その人はホーリネス伝道教会からシオニストの烙印を押され、教会から相手にされなくなった人たちの一人だろう。」と。

 

(日本のトランシットビザの滞在許可期間は21日である。 難民は神戸へ続々入ってくるが、行き先がない。 三国同盟を結んだナチス・ドイツが東京の外務省に、しきりにユダヤ人の始末を要求してきている。 

 

ユダヤ人支援者の小辻博士は上京して松岡外相に会う。 「ユダヤ難民の滞在延長は神戸の問題だ。 東京さえそれを知らなければよい。」という言質を得る。 神戸へもどり地元の警察署への根回しを丹念に行った。 神戸の管理局は難民の滞在延長を決定した。)

 

チェーヤはハイムの部屋で夫のゲッツェルに、散歩しようというが、畳に横になったまま返事をしない。 いつものように、ドヴィドを連れて公園に行く。 桜の木の下では、日本の男達は花見酒をやっている。 ドヴィドはブランコに乗って遊んでいる。 

 

あるとき、日本人の女性がやってきて、「いつもよくお見かけしますね。 かわいいおりこうな坊やですね。 坊やにこのプレゼントを。」とドイツ語で話しかける。 「それはそれはご親切に、おおきにありがとう。」とチェーヤはイーデイッシュ語で答える。 

 

イーデイッシュ語はドイツ語に似ている。 「ドヴィド、降りてきて、ようお礼言いや。」 ドヴィドは良い赤いゴム鞠をもらって大喜び。 チェーヤはこの神戸の女性は女学校でドイツ語を習ったのだとあとで知った。

 

5月。 ハイムの難民達は退屈している。 ユダヤ協会でくつろぐか、元町の通りを連れ立って散歩するかである。 午前中早く、2人のユダヤ教学校の少年は礼拝道具を入れた皮カバンを下げて、大丸のエレベータで八階建ての屋上の遊園地へ。 遊戯器具で散々遊んだのち、屋上から神戸の町を眺める。 

 

エレベータガールが警察へ連絡。 2人は刑事に警察へ引っ張られ、ユダヤ協会に連絡される。 協会から日本人の国民性を熟知したマイケル・イオニスがやって来た。 少年の革鞄はカメラでないことが証明された。 大丸のエレベータガールも刑事も警察も面子をつぶされることなく円満解決。 

 

しかしユダヤ難民達の神戸でののんびりした生活は続かない。

 

1941年秋、受け入れ先の国がなくて最後まで神戸にいたユダヤ難民1100人が、次々と神戸から日本の汽船で36時間の航海で上海の共同租界へ送られることになった。 

 

上海の共同租界は工部局(英5名、米2名、日2名の代表役員からなる)によって運営される自治領域だ。 

 

共同租界には17000人以上のユダヤ人がいる。 ユダヤ人の大多数は1920年台のドイツやオーストリアからの移民と、1930年代前半に満州国から移住してきたロシア系である。 

 

ここにはいろいろなユダヤ協会があるが、神戸からのポーランド系ユダヤ難民を歓迎はしていない。 しかし、状況は許さない。 

 

孤児のモイシェとソフィーの兄妹はシルキン親子(ゲッツェル、チェーヤ、ドヴィド)と上海共同租界のゲットーの地区でアパート14Bで暮らすこととなる。 

 

神戸からの難民はまずは、職探しから始めなければならない。  チェーヤはたよりない夫ゲッツエルを含む5人の家族を中心となって、支えてゆこうと決心する。 

 

ゲッツェルはゲットーの生活に失望して首を吊って自殺、特別の計らいでユダヤ人墓地に埋葬される。 チェーヤは3人の扶養者のいる未亡人となり、生活援助費を得ることになるが、勿論不十分。 子供たちはアルバイト先を探す。 モイシェはシナ人の下でアルバイト。

 

アヴラムはユダヤ人学校で理科の臨時教員となった。 学校の授業は英語でなされる。  アヴラムは生徒に較べても、英語ができないから大変だ。 猛勉強して、やっと英語で理科を教えることができるようになった。

 

1941128日日本海軍はハワイの真珠湾を攻撃し、米国、英連邦、フランスに宣戦を布告。  上海では日本軍が湾内に停泊中の英帝国海軍の砲艦Petrelを撃沈。 

 

かくて、大東亜戦争が勃発した。 

複翼機が住民の頭上を飛んで日、英、仏、シナ語で書かれたパンフレットがまかれ、「残念だが、日本と連合国は戦争となったので、上海の共同租界とフランス疎開は、日本が責任をもって統治することになった。 それ以外は今までと変わらないのでパニックに陥らないように。」と。

 

敵国人(英人)は、上海郊外の収容所へ送られ、他の外国人はそのまま、ユダヤ人たちは「民族協和の精神」にのっとって保護されることとなった。

 

アヴラムは2年前に地獄のヨーロッパから逃れて、自分達難民にとってまたぞろ戦争とはと複雑な気分だ。 しかし、死ぬよりはましだ、ここで生き残ろうと決心する。

 

19426月、ドイツ・ナチスの「ポーランドのユダヤ人屠殺者」の異名のあるマイジンガー・ナチス大佐が東京から上海に潜水艦で到着し、現地の日本の統治者たちに、ユダヤ人の処分を迫る。 結局、日本の統治者はききいれない。) 

 

さて、1943年から1945年にかけて。 日本の戦況は悪くなる。

 

米軍の爆撃機がゲットーに爆弾を落とし被害者は日本人、シナ人、ユダヤ人。 ユダヤ人被害者だけでも300人。 モイシェの妹ソフィーも犠牲者の一人となる。 

 

迫り来る蒋介石国民党軍と共産党軍。 ついに815日。 ラウドスピーカーで天皇の終戦の詔勅。 日本軍は整列し、母国の降伏を謹んで拝聴する。 

 

米軍から日本軍は国民党軍に降伏するまでは、暴徒による強奪、破壊から上海市の治安を守るようにと連絡が来る。 米軍と国民党軍が到着する826日まで、上海市は日本軍によって平静に保たれる。 17000人のユダヤ難民たちは再び平常の日々にもとる。

 

913日アヴラムの学校では新しい学期が始まる。 ヨーロッパからの新しい報告で、アウシュビッツやトレビアンカなどでのホロコーストのことを知る。 いままでひどい目に会い続けてきたが、自分はポーランドから上海へ来ることができて、結局は運が良かったのだと考えよう。 

 

終戦後しばらくしてから、アヴラム、チェーヤ、ドヴィド、モーシェを含む多数のユダヤ人たちは、米国、カナダ、ラテンアメリカへ移民する。 

 

1948年イスラエル建国。 1949年毛沢東の共産党政権が誕生。 

 

ビジネスの理由などで上海を去らなかった10000人のユダヤ人達も1950年までにはイスラエルや他の国に去る。

 

(終わり)

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